(41)落ちてもいいもの
ひとつまちがうと、ひどいことになるかもしれないので、あまりお勧めはできないのだが、安くて簡単なインテリアとして、私がよくやるのは、きれいな小さめの紙袋を、そのまま画びょうで壁にとめて、それにフェイクの花や草、ドライフラワーなどを入れて、花びん代わりに使うことである。母が老人ホームの個室にいたとき、釘が打てない壁だったので、額や花瓶などの重い物は飾れず、これで壁を華やかにしていた。見舞いに来てくれた友人が、「こんな使い方もあるんだなあ」と感心してくれていたから、そんなに悪くもなかったんじゃないだろうか。
何より、高齢者がためこむもののリストにきっと上がる、紙袋の処分に役立つ。とっておきたくなるのも無理はないと言いたくなるぐらい、最近の店が服や雑貨を入れてくれる紙袋はきれいで、しっかりしているから、こうやって使うと大変重宝なのである。
私が今いる小さい家は、腕のいい大工さんがしっかり建ててくれた、百年はもちそうな、飾り気はないが立派な家で、腰板の木は次第に美しい飴色になり、白いしっくい壁とよく似合っている。住みはじめたころはカッコつけて何も飾らないようにしていたのだが、六年目ともなると、田舎の家から引き上げてきた膨大な荷物の処理もあって、そんなことは言っていられなくなり、いたるところの壁に、どきどきしながら涙ながらに釘やフックをおそるおそる取りつけている。
そんな中でも、なかなか何もつけられなかったのは、台所の調理台に向かいあった小さな空間だ。実はここには、大工さんが壁に直接あけてくれた、猫の出入り口がある。全然外に行けないのもつまらないだろうからと、私は田舎の家でもここでも、猫が歩き回れる金網で囲んだ庭を作っていて、そこに出るための出入り口だ。
この猫は以前、トイレをうまく使えなくて、飼い主さんに愛想をつかされて、うちに来た経緯がある。トイレが小さいのはだめなのかもしれないと、私は家の中ではなく、庭のはしに川砂をしいてやった。それが気に入ったのか、猫は雪の日でも嵐の中でも、律儀にこの出入り口から外に出て、きちんと用を足してくる。もっともときどき私が掃除を怠っていると、抗議の意味か、近くの敷石の上に糞をしていることがある。山羊のようなころころ固い糞なので掃除は簡単だから、私はごめんごめんと言いながら片づけて、砂場をきれいにしてやっている。
頭はいい猫と思うのだが、とにかくびびりの臆病者で、長い毛と大きな身体と、きれいな顔をしているのだが、どことなくドジでもある。この家に住みはじめて、私がこの出入り口に彼を押しこんだり引き出したりして、通り方を教えているときも、ふさふさの長いしっぽを扉にはさんでしまって、死にそうな大声で鳴いた。トラウマになるかと心配したが、すぐ慣れて、今では上手に出入りしている。
とは言え、庭でカマキリに遭遇しても、相手が鎌をふりあげて威嚇すると、見なかったことにしようというように目をそらして離れてしまうような猫だから、私としては、この出入り口の上に何か重いものでもかけたりしていて、ひょっとそれが落っこちて、たまたま通過しようとしていた彼を直撃したら(また実にそういう、間の悪いときに居合わせそうな猫なのだ)、二度ともう、この出入り口を使わなくなるのではないかという不安がある。だから、ここには何もかけないことにしていた。
だが、ふと、ひもやリボンのきれはしを、当座放りこんでおくための紙袋なら、つるしておいて、かりに落っこちても別にそんなに彼はショックを受けないのではないかと気がついた。その上、彼はひもというひもが大好きで、高価な猫じゃらしやボールはすぐあきるくせに、荷造り用の紙紐には目がなくて、家じゅうひっぱって回って遊んでいる。万一、紙袋が落っこちて、ひもやリボンがちらばったら、それこそ大喜びするにちがいない。
そこで私は、例によって、ちょっと胸を痛めながら、飴色の木の壁にフックをねじこんで、紙袋をつるした。適当にそのへんにあったものをかけたのだが、あらためて気がつくと、この手の小さめのきれいな紙袋はやたらと多い。もう少し大きいのはくずかごにはめて、ごみ入れにし、もっと大きなのは新聞や古紙を入れて資源ごみに出すので、この小さいサイズのだけが余りがちなのだ。
他のサイズのものとちがって、そうひんぱんに取り替えないから減るスピードは遅いだろうが、まあ使い道はひとつできた。今度は、古い方の家のクロゼット代わりにしている二階に、母の部屋でやっていたような、花びん代わりの飾り場所をいくつか作ってみようかと思う。
猫と言えば、この猫は私がどんな服装や髪形をしても、特に気に留めた風はない。同じ猫でも、昔飼っていた、私が大好きだった大きなオレンジ色のキャラメルは、よくベッドの上に寝そべって、私の身支度をじっと見まもっていた。「キャラ、お母さんはきれいだろう?」と私は照れ隠しによく、そんな彼に声をかけたものだ。今の猫は、そんなことはまるでない。
先日、人間ドックのあとでひっかかった精密検査が、一応無事にすんだので、安心したお祝いに私は帰りのデパートで、とんでもないピンクのヘルメット型の帽子を買った。七十のばあさんがかぶるものではないという以前に二十代の女性でも普通かぶるまいと思うような、すごいデザインで、青く光る目と、銀色のヒゲがついた猫の顔になっている。それなりに高級な店で堂々と売られていたものの、買った私が言うのも何だが、これを買う人がいるなどと、どうして店の人が思ったのかわからないと言いたくなるような代物だ。
授業や会議で皆をおどかすのにいいと思って、手始めに、近くの店にかぶって行こうとして、出かける前にふと気づくと、いつもは何の反応もしない猫が、台所の机の上で私を見つめて固まっていた。
とっさにどうしたのかわからず、彼のまんまるにはりさけそうに見開いた目の視線の先をたどると、私の頭上、つまりピンクの帽子の猫を凝視しているのだった。
「新しい猫を飼ったと思ったんですよ」と、聞いた人たちは彼に同情したが、私は彼がびびったあげくに、やけくそになって攻撃したりしないためには、どこに帽子を置くべきか悩むことになった。高いところのフックにかけてもいいのだが、それより、なげしに小さい棚を作って、神棚のようにこの帽子を安置したらいいのではないかと、またしょうもない計画を思いついた。
しかし、お金もないし、家の中はとっちらかって工事の人も入れられそうにない。何よりも私は今はもう仕事をやめてしまっている、故郷の大工さんの作品であるこの家に、他の人の手をあまり入れさせたくなかった。
ふと考えついたのが、片づけをしていて、紙袋ほどではないが、よく出てくる、お菓子やハンカチの空き箱である。ふただけのものもあって、たたんで古紙に出してもいるが、しっかりしたきれいなものは、これまた、ついついそのままにしてしまいがちだ。
あれを、画びょうでなげしにとめて、即席の棚にしたら、かえって面白いのではと思った。幸い帽子は軽いので、厚い紙や薄い木の箱のふたを画びょうでとめても、十分に棚として使える。ベッドのそばだが、これまた万一落ちたとしても、何の被害があるわけでもない。
実際には、多分つくだ煮か何かが入っていたのじゃないかと思う、仕切りのある木の箱を、細い小さな釘でなげしに、それもおっかなびっくりで、そっと打ち付けた。寺院の天井画のイメージで、使用済みのカレンダーから切り取った花の絵を仕切りの中にはりつけた。
安っぽい悪趣味になりかねないというか、もうなっているかもしれないが、その上に、くだんのピンクの猫帽子を載せると、あまりのわけのわからなさが、趣味の悪さをおおいかくしてしまうような気がしないでもない…そうなっていることを祈ろう。
紙袋と同じように、この箱のふたや本体を、画びょうでとめて、落ちてもかまわない軽いものを飾るというのも、わりといけるかもしれないぞ、とまたしても、よからぬことを私は考えはじめている。
まあしかし、この新しい家に関しては、この二か所でやめておくのが賢明というものだろうな。やりすぎると、きっとしくじる。(2018.2.18.)