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(42)祖父に来た賀状

この年になると、年に一度の人間ドックで、わりとあちこち「精密検査を受けて下さい」という項目が見つかる。数年前には首筋の血管が細くなってきていると言われて、何度か定期的にチェックした。それがどうやら大丈夫ということになったら、今度は膵臓に腫瘤があると言われた。

大学生のころ、胸にしこりがあって受診したが、良性のものと言われて放っておいたら、その内消えてしまったし、糖尿病はずっといわゆる境界型だし、甲状腺と胆嚢にもポリープがある。いろんな爆弾を抱えて生きている気分には慣れていたが、膵臓というのは、たとえばありがちなスパイ映画や刑事ドラマで、余命いくばくもない男女が、復讐や社会正義のために確信犯の殺人を犯したりするときに、よく使われる病名に登場するから、いい気分はしなかった。

しかしまあ考えてみると、膵臓の悪性腫瘍だったとしても、そういった犯人たちが一年かそこらかけて殺人計画を練って実行するぐらいの時間的余裕や体力はあるのだろうから、家の片づけや予定の仕事を、それなりにやれる時間ぐらいはあるだろうと踏みながら、再検査に行った。

ところで私は、去年の暮れからダイエットをかねて、肉を食べずに野菜と魚中心の自炊に切り替えた。何もこの野菜高騰の折りにとは思わないでもないが、パソコンで簡単なレシピを見つけては試していると楽しいし、野菜はこんなにおいしいのかという発見もあった。
ただ、関係があるのかどうか、そのころから、妙に胸やけや軽い吐き気のすることが多く、食道か胃か腸に何か問題があるのかと思っていたが、人間ドックの胃カメラでは、大変きれいで何もないと、ありがたい診断をもらった。

そうなると、このむかつきや吐き気はもしかしたら膵臓の不調によるものかもしれないと思ったが、再検査に行ったとき、担当の若い女性の先生にそのことを言うと「絶対に関係ありません」と一笑に付された。検査の結果も、今の所さほど問題はなく、数か月後に念のためにもう一度MRIで経過を確かめたあとは、半年に一度の検診で様子を見ておけばいいとのことだった。考えようでは何かあったら早期にわかるわけだから、殺人計画でも著述でも、準備する時間はあるからいいかもしれない。

むかつきと吐き気もだんだん治まってきた。もともと私は、お茶を飲んだりみかんを食べたりすると、若干しゃっくりやげっぷが出そうになることが昔からあり、これは祖父の体質の遺伝かもしれない。祖父が晩年、背中にしつこいできものができて、自分で治療していたが、似たような小さい吹き出物が私もしばらく胸の谷間にできていたことがある。

特に祖父のしゃっくりは、私が中学校のころには、かなりひどくなっていて、毎回食事のたびに、食べ物をのどにつまらせ、それを何とかしようとどんどん押しこむように食べるものだから、ますますにっちもさっちも行かなくなり、洗面所にかけだして行って、げぼげぼと食べたものを吐くということをくり返していた。もともと祖父と母の間は険悪で、食卓の会話もほぼなかったし、げえげえと食べ物を吐かれる中で食事をするのだから、楽しい時間とはとても言えなかった。

祖父がそうやって、食べ物をのどにつまらせ始めたとき、子どもの私が思わず自分のコップの水を飲んだことがあるのを覚えている。母は横から仏頂面で「あんたが飲んでどうするんね」と言い、食後に祖母と「たまったもんじゃない、どうして少し食べるのをやめて休んで、水でも飲もうとしないのだろう」と祖父の悪口を言いながら、「耀子が水を飲みたくなるはずよ」と、妙に私に共感した。

三度三度の食事のたびに、あんな不快さを味わって、それでも食べていたのだから我ながら大したものだ。そして大人になってから叔母と豪勢な食事をしても、服装や食べ方をうるさく注意されて私はいつも不機嫌だったし、叔母と母が年とって三人で食事をすると、二人は自分たちが食べきれないおかずを、もったいないからと私の皿に載せてよこして山のように積み上げ、私は自分が「家畜人ヤプー」の肉便器になった気がしていた。
さらに院生時代の資料調査の旅行などでは、女性一人だからと十数人の先生や学生たちの飯と汁とお茶の給仕を当然のようにしなければならず、あれこれ思えば私にとって、人との食事は楽しくない思い出が多い。

もちろん、気の合う友人たちと博多のホテルのロビーで、夜明けまで飲んだり食べたりしながら連日語りあかしたこともあり、学生や教授や同僚と「給仕をしないでいい」店で長時間、学問論だの哲学論だのを、これまた毎日のようにしゃべりあったりしたこともあり、そういうのは爽快で痛快で愉快だった。しかしまた一方で、自宅ででも店ででも、一人で食事をしたりお茶を飲んだりして瞑想や空想にふけるのも、それに劣らず充実していて楽しかった。

最近、新聞のコラムで、社会学者の女性が「一人の外食は自分でやっても人のを見てもどことなくわびしい」という感覚から論を展開しているのを見て、私は腰を抜かし、いったいこの人は、高齢者を介護する合間のあわただしい食事や、うるさい上司やいやな相手との緊張と苦痛を生じる食事を、その年になるまで経験しなかったのか、しなくても想像もできないのか、それで社会学を語るのかと、いろいろ不思議に感じたものだ。

あのころ、つまり三十代から五十代ぐらいまでの私は、しばしば生まれてから今までの自分の人生を色分けしたら、一番多いのは「ぼうっと一人で何かを考えている時間」で、次に同じくらい多いのは「誰かととりとめのないおしゃべりに興じている時間」だろうなと、考えていた。それは多分、まちがいではなかったはずだ。勉強より読書より、その二つの時間は私の中で圧倒的な量を占めていた。
そして今、愕然とするのは、ここ数年、私の毎日には、そのどちらもが、ほとんどなくなっていることだ。もしかして私は、もう語りつくし、考えつくし、後はもう行動あるのみという状況に突入しているのだろうか。

友人たちと話しても、おたがいに長く生きてきた豊かな人生経験があり、深くつちかった知識と情報があるものだから、話が空理空論にならない。非常に実のある実務的な情報交換になって、それはそれで安定して楽しいのだが、これからどんな人生が待っているのかわからないまま、手探りで、まちがっているかどうかもわからないことを、やみくもに、野放図に、しゃべりまくっていた、昔のようなはちゃめちゃさはない。
多分それは、幸運で、幸福なことなのだろう。

中学から高校まで、私は学校でも友人たちとあれこれしゃべりまくって一日を過ごしていたが、一番あらゆる話題を語り、笑いあった相手は母だった。私は高校に入るまでは、離れの部屋で母といっしょのふとんに寝ていて、毎晩それこそ明け方まで、読んだ本の感想や世界情勢、村の政治など、ありとあらゆることを話しつくした。
わが家は田んぼの中の一軒家で、大声で話しても歌っても叫んでも、近所から文句を言われる心配はなかった。しばしばあまりに大声で二人で声をあわせて笑ったので、翌朝、母家で寝ていた祖父から、「おまえたちの笑い声がやかましかった」とぼやかれたことはあった。「あんな大声で笑うものがあるか。もっと、おしとやかに、おほほほほ、と笑うものだ」と祖父は私に言ったが、怒っているというよりは、自分も仲間に入りたがっているように見え、祖父のその忠告に笑い転げる私のそばで、母も珍しく祖父といっしょに笑っていた。

もともと母は祖父のお気に入りで、祖母に対する祖父の亭主関白ぶりと、自分が結核にかかった時の祖父の態度に、母が怒って訣別したというような事情もあったらしい。祖父はわがままでいばっていたが、人のいい淋しがり屋でもあった。高校か大学のころ、私が自分で作った紫の布に赤い房を縫いつけたカーテンを、やたら気に入って、離れの廊下にかけさせたりしたように、派手で華やかなものが好きでもあった。

祖父母も母も、それぞれまったくタイプはちがうのに、不思議なほどに皆共通していたのは、明るさとユーモアを持っていたことだ。他者や周囲を面白がる感覚とともに、自分自身が型破りで面白い存在だった。ぶつかりあって無視しあって、時には憎みあっていても、皆それぞれに、はたから見ると吹き出したくなるような愉快で豪気な精神があった。時代なのか、血筋なのか、誰かが生み出し、回りを染めたものなのか。私には今でもわからない。

村医者だった祖父は、晩年には当然ながら患者も減り、学校の嘱託医の依頼もなくなることにあせっていた。親族や家族が医療ミスを恐れて、引退を勧めても聞かず、ガンの新薬を発見したと本気で主張していた。それが妄想であったにせよ、最後まで祖父は前向きで夢見る人だった。
彼は自分の人生を、高くでなくても正しく評価してほしかったのだと思う。医者としても、家庭人としても。実際に才能もあったし、大きな仕事もした人だった。誰かが何かのかたちでもっと、一度だけでも祖父をねぎらうべきだったのかもしれない。安っぽい勲章でも、ちゃちな金杯でも、家族だけの慰労会でも、どんなにささやかなものでも、十分に祖父は満足しただろう。

叔父の病院で最後の日々を過ごし、八十八歳で亡くなった祖父の葬式は親戚や村の人々が集まって盛大だった。私は卒論が忙しくて参加できなかったのだが、母からその様子を聞くにつけ、切実に思ったのは、その葬式を祖父その人に見せたかったということだった。こんなにたくさんの人が集まったよ、誰も皆、あなたを忘れていなかったよと教えたら、どんなにか祖父は慰められ、手放しで無邪気に喜んだだろう。

田舎の家から運びこんだ膨大な荷物の山も、そろそろ先が見えてきて、ここ数日、家族の手紙や年賀状の、整理と処分にかかっている。私自身の年賀状はかなり大胆に処分してしまったのだが、祖父宛のある年の一束が出て来たとき、何となく私はそれを、そのへんにあった、ちょうどいい大きさの箱に入れた。そして祖父が好きそうな、明るいピンクの年賀はがきに、次のような文章を書いて、いっしょに箱の中に入れた。

「おじいちゃん そちらはいかがですか もう四十年近くになりますね 知っていると思いますが 宇佐の家は信頼できる友だちが買ってくれて大事に管理してくれているので どうぞ安心して下さい 古い荷物を整理していたら おじいちゃんのもらった年賀状が出て来ました(昭和四十六年のです)もちろんこれは一部分でしょう 自分のもらった分はもう処分して行ってるのですが おじいちゃんのはとっておきます 年をとって人づきあいも減って年賀状が少なくなるのを おじいちゃんは残念がって 製薬会社からの宣伝の年賀状まで全部返事を書いていたよね それを思い出すと せめてもう少しは大切に残しておきたいです 私もあとどれだけこちらにいられるかわかりません でも おじいちゃんのことは忘れないからね よいお年を」

遊んでいるのか感傷なのか、自分でもわからない。こんなことをしながら、私は笑っているのだが、こんなことぐらいでも祖父はめちゃくちゃ喜びそうで、何となくちょっと気がひける。(2018.2.20.)

 

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