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(46)ランドセル

(小学校・ランドセル・裏切り)

六年間つきあった

現在の私は二軒の家で暮らしている。その古い方の家の二階は、建て増し分で一部屋しかない。ここ数年はそこをまるごとクローゼットにして、洋服をぎっしりかけている。
その一隅に、ちょっと見ただけでは何かよくわからない、すりきれた革の塊がぶら下がっている。少し前に田舎から引き上げた荷物の中からこれが出て来た時には、母はこんなものを捨てずにいたのかと私も驚いたが、これは私のランドセルである。小学校六年間、これを背負って学校に通った。中学校や高校では、普通の布製の手提げカバンを使っていて、それはもう残っていないから、このランドセルはそれなりに母も大事にしていたのかもしれない。今はもう色さえさだかではないが、渋く濃い赤で、背中の部分のクリーム色の豚皮がやわらかだったのを覚えている。
家に離れができて、その一室を母と私の部屋にしてから、このランドセルは、いつも壁際の板戸の洋服かけにかかっていた。私は小学校五年生ぐらいから生理が始まって、最初に下着に血がついているのを母が教えてくれて気づいたとき、何だかうっとうしい気分でとりあえず目の前にかかっている、そのランドセルをながめていたのを思い出す。こういうことのいろいろで、特に記録も記憶もないさまざまなできごとの前後がわかって、個人史の年表が埋まって行くのが、何の役にたつかはともかく、とりあえずはありがたい。

入学式の翌日

私のいた地域では、村の子どもたちがほとんどは保育園か幼稚園かに行っていて、ずっと家の中で暮らしていた私のような子どもは珍しかった。私の家から川をへだてた向かいの集落にいた男女数人の子どもたちが、ときどき家に遊びに来ていたぐらいで、夏休みに来る従姉たちを除けば、大人たちと本と猫だけが、私の遊び相手だった。
小学校の入学式のことは、まるで覚えていない。そのときに、本当にたまたまだったと思うが、近くの駅前の家の子どもと親と私の母が話をしたのがきっかけだったようで、そこの子どもが次の日の朝、私を誘いに来てくれて、二人でいっしょに学校に行った。
今ではもうなくなっているが、校門の横には二宮金次郎の銅像があり、校門の真正面が講堂だった。前日の入学式がそこで行われたので、私たち二人は迷いもなく、そこに入って行ったが、当然そこはがらんとして誰もおらず、私たちは途方にくれた。皆、どこにいるんだろう、みたいなことを私が言い、いっしょにいた彼女は「カバンどこにおくんじゃろう」と言った。そのことばを七十二歳になろうとしている今もはっきり覚えているのは、私も本当にそう思っていたからだろう。

そこからはまた、記憶がとぎれる。教室のある校舎はずっと裏の方だったから二人が探して行けたとは思わない。かと言って泣いたり騒いだり、ものすごく不安にかられてパニクったという覚えもない。多分誰かが見つけて、あっさり連れて行ってくれたのだろう。次の記憶は、もう教室前の下駄箱のある廊下で、私たちは他の大勢の生徒ともみくちゃになりながら、教室に入りかけていた。そう言えば前日もちゃんとここで先生の話を聞いたと、思い出してもいた。その女の先生が、私たちに「あんたたち、昨日のところに行ったんじゃろ」と何でもないように言って、私は失敗したと思うより、ああそういう風に予想できる普通のことなんだと思って落ちついた。

青い魚の絵

家でいろんな本を読んでいたから、学校の勉強は特に困らなかったが、その分何も覚えていない。当時はクラスが五十人以上いて、教室の後ろの壁まで、ぎっしり机が並んでいた。多分入学後の数日で習ったのは、黒板につりさげられた絵の中の、青い魚の数か何かを答えるもので、その青灰色の魚の絵を今でもぼんやり覚えている。
最初の日にいっしょに登校した彼女とは、その後もずっと一番の友人だった。多分私の知らないところで、クラスの皆や世間から、彼女はずっと私を守ってくれていたのだろう。元気で陽気でユーモア精神にあふれ、自分が美人じゃないと嘆き、特に眉が薄いのを苦にして、しょっちゅう嘆いていた。まだテレビもなかったから、村の映画館に映画を見に行き、大川橋蔵や沢村訥升に熱を上げる、ロマンティストでもあった。おたがいの家にほとんど毎日遊びに行き、兄弟姉妹が多い彼女の家の二階で、私が自分の家にはない、当時は貸本屋でしかお目にかからなかった漫画本に何時間も読みふけっていて、家の人が「放っておいていいのか」と心配すると彼女は「うん、ああしておけばいい」みたいに応じていたらしいから、私のことをよくわかってくれてもいた。

親友を裏切る

覚えている限りでは一度だけ彼女は私に腹を立てた。別の友人の女の子と、もっと仲よくしてほしいと私が頼んだときだったような気がする。私の方は先生にとがめられたとき、とっさに彼女がやったと皆の前で彼女に罪を着せると言う、言い訳のしようのない裏切りをしたことがあり、信じられないというように見返した彼女の顔を今でも覚えているのだが、それ以上追求しなかった先生と、多分信じられなかったあまりに忘れてしまったかもしれない彼女のおかげで、ひどいトラウマにはならなかった。ただし、それから現在にいたるまで、私は自分の意志や勇気や倫理観について、まったくどんな幻想も持てないでいる。どうせ信念はつらぬけないし、どうせ仲間は裏切るだろう。だからこそ、そんな局面に追いこまれないような世の中にしておきたいという願いは切実だ。
それ以外では、って、それがあってもかいと言われそうだが、私たちはずっといつもおたがいを好きで信じていたと思う。中学や高校は別だったので、あまり会うことはなくなったが、就職してからも彼女は年賀状に毎年、会いたいねと書いてよこした。一度、きれいな娘さんを連れて留学のことで相談に来たが、昔とまったく変わらずに、あけっぴろげで、ロマンティストで、やや型破りで、幸せそうで、おしゃべりで早口だった。私の性格のかなりの部分は彼女によって作られたのかもしれない。彼女が友人でなかったら、私の人生は、かなりちがったものになっていたのではないか。

「会えば、いつでももとのままだから」

彼女も腎臓を悪くして透析に通い、そのせいかどうか心臓も弱くなって、苦労はあったはずだ。だが、そんな様子はまるでなく、元気いっぱいに見えた。それからも会おう会おうといいながらなかなか会えなかったが、彼女は電話や手紙でよくこう言った。
「ずっと会わなくても、変わらないってわかってるから、いいんよ。会ったらいつでももとのままで話せるから」。
彼女はそれを確信しているようで、本当に力強くそう言って、私もそれを信じられた。
結局そのまま会うこともなく、彼女は心臓の状態が悪化して急死した。他の友人たちとかけつけた葬儀の席で、私が初めて見るご主人は、愛情と無念のこもるあいさつをされ、檀家の婦人部での彼女の存在の大きさを、お経のあとでご住職は心をこめて語られた。彼女の職場の人らしい青年が、私の隣席でずっと声を殺して泣いていた。
もしかしたら彼女が選んでいたのかもしれない、白い帽子のなかなか素敵な遺影をながめながら私は、ああ彼女は地域で職場で家庭で、最後までとことん彼女だったのだなと、それこそ、会わずにいても、よくわかった。

中学で高校で大学で、そしてその後の時代でも、ごく最近の数年でも、私はそれぞれかけがえのない、私には過ぎた友人たちに恵まれたが、それはもしかしたら、小学校時代の彼女が私の中に培ってくれた豊かな土壌のたまものだったのかもしれない。
彼女との思い出を別にしても、よくあることだが、ここまでとっておかれたランドセルを私の手で捨てるには勇気がいる。
まあどうせ、小学校からの教科書やノートも、しつこく母はとってくれているので、それをつっこんで二階の壁にかけておくことにした。

「きっとあなたは、りかが好き」

教科書には、デパートの包装紙などで、全部カバーがかけてあり、これもどうやら母のしてくれたことらしい。毎日これを使っていながら私にまったく記憶はなかった。よくよく授業に興味がなかったのだろう。言っておくが先生方のせいではない。ひまさえあれば空想と白昼夢にひたって、座って黒板を見ながら目を開けて眠っていたような私に、関心を無理に持たせようとしたらそれこそ拒否反応で学校嫌いになっていたに決まっている。
それでも、教科書を見ていると、小学校の入学前に、田舎の家の玄関わきにあった階段のあたりで、母と交わした会話を思い出す。小学校ではどんなことを習うかを話した時に母は「りか」という科目があって、「これは、あんたは、きっと好きだと思うんよ」と言った。動物や草や木などについて調べたりする授業だ、と母は教えた。
実際にそうだったか、そうでもなかったか、それも今は覚えていない。ただ、入学式の翌日の、後に親友となった彼女のことばと同様に、母のその時のことばもまた、漠然とおぼろに溶け合ってかすむ無限なまでに膨大な記憶の海の中で、そこだけ切り取られたように鮮やかに、私の中に今も消えずに残っている。(2018.5.26.)

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カツジ猫