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(47)目と耳

小学校の図書室は、玄関の横にあって教室ひとつ分もない狭さだったが、私はそこで、家にあった講談社世界文学全集には欠けていた「ロビン・フッドの冒険」とめぐりあった。中学校の図書室はそれよりだいぶ広くて二階にあり、窓が多くて明るくて、吉川栄治「新・平家物語」や、赤い小ぶりの本の全集の「スカラムーシュ」「ゼンダ城の虜」、母が勧めた徳富蘆花の「思い出の記」があった。
木下尚江「火の柱」も「思い出の記」と同じ、布張りの古い文学全集ではなかったろうか。戦前の古い本で伏せ字が多かった。私の好きだった警察のスパイの吾妻という青年は、主人公の立派な社会主義者篠田を探っている内に彼に次第に傾倒してしまい、上司に怒られる。上司は篠田を逮捕したら獄中で始末するみたいなことを言って、吾妻は青ざめて「じゃまた××の××でも××××と言うんですか」と聞く。上司は我々がいろんなひどいことをするのも、しょせんは「×の×」だと笑い、吾妻は「×の×…×の×…」と口の中でくり返す。
大人になって、たまたまこの小説が文庫本の新刊で出たのを読んだ私は、その部分が「肺病の黴菌でも飲まそうというんですか」と「飯の種」だったことを知った。もっと他にも問題になりそうなことばはいっぱいあるし、伏せるほどのものじゃないような気もするが、何かの基準があったのだろうか。
どうやってまぎれこんだのか、銀林浩とかいう人たちの登場する、戦後の学生運動の裁判記録もあって、めりはりつけまくりの熱っぽい書き方が、まるでカッコいい冒険小説のようだった。
そのころの記憶で、ひとつ、ちょっとわからないのは、別館みたいなものだったのか、一時的部分的な移転だったか、職員室の隣にも小さい暗い書庫みたいなのがあったことである。私はそこで好きな軍記物の人物の消息を求めて、「吾妻鏡」などを読みあさり、「源氏物語」の現代語訳を読んで、源氏の幼女への扱いにムカついた。これまたなぜかまぎれこんでた教師用の生徒の教育法の本を読んで、こんな風に教育されてたまるかと対策をひそかに練ったのも、この部屋である。

高校の図書室は、もっと広く、まばらな木々と芝生と渡り廊下で囲まれた中庭にあり、本棚の並ぶ壁以外は、一面のガラス戸で明るかった。ガラスを区切る黒い鉄の枠の向こうは、雨が降っていても陽が照っていても、木々と芝生と空が光にまじりあい、いつもきらきら輝いているように見えた。内部は人が少なくて、静かでひんやりと明るく、カフカの「城」などを読んでぼんやりと頭を混乱させるには最適だった。友人たちとおしゃべりにうつつをぬかし、先生や男子生徒をからかうさまざまないたずらの計画を練るなど、ろくなことはしなかった休み時間もすばらしかったが、また、それだからこそ、放課後に図書館でそうやって、異国や過去の男女と関わりあうのは、花と枯れ草の中に身体が沈んで行くような、こたえられない快感だった。
多分、週刊誌の荻昌弘さんの批評で興味を持ったと思うのだが、労働党の代議士山本宣治、通称ヤマセンを描いた映画「武器なき戦い」のシナリオも、そこで見つけた。山宣が、冒頭の大学の講義で男女の性器の大きな図を掲げて、ざわめき笑う学生たちに、産児制限の必要性、庶民生活の深刻さを説いて次第に集中させ、最後に「諸君、笑っていられるか」と決めるまでのせりふを覚えてしまうほど、ほれぼれした。

私の社会主義や革命への共感やあこがれは、少々怪しげな要素も多分に入っている。本当に全人類が平等になり財産が公平に分配されて貧富の差がなくなれば、私の持っている大切で好きなものの数々が、持てない人からうらやましげなジト目で見られる心配がなくなるだろう、誰もが同じにものを持てる社会なら、私も安心して心おきなく、自分の取り分の私有財産を愛して大事にしていても文句は言われないだろうという、とんでもない気持ちが根底にある。
しかし、その一方で、ロビン・フッドから山宣にいたる、図書室の中で私がひたっていた世界は、社会主義とも革命とも決して異質なものではなく、むしろ、反抗や革命は私にとって、常になつかしい故郷だったのも事実だ。
大学に入って卒業までずっと続けた自治会活動と学生運動は、さまざまな事情から本腰を入れられなかったこともあって、決して十分なものではなく、苦い思い出ばかりが多い。今そのころを思い出させる品物で残っているのは、ベトナム戦争でベトナムの住民たちがライフル銃で撃ち落としたという米軍戦闘機のジュラルミンで作った、銀色のくしぐらいだ。カンパをかねて、私はそれを数本買った。同じジュラルミンの指輪もあって、くしといっしょに、故郷の家によく遊びに来ていた共産党の議員さん(祖父がぐちゃぐちゃに包容力がありすぎる人だったので、家には共産党員も教会の牧師も右翼の大物も普通に出入りし、祖父と談笑していた)にプレゼントして大変喜ばれた。母と同年輩のその議員さんももう亡くなられた。

今でも覚えているのだが、自治会活動を始めてまもなく、多分共産党主催の講演会に出席して、最後にステージと客席が声を合わせて「インターナショナル」を歌ったことがある。私は「若き親衛隊」やその他の文学で、この歌の歌詞「立て、飢えたる者よ、今ぞ日は近し、覚めよ、わがはらから、暁は来ぬ…」はよく知っていたが、実際に聞いたことはなく、メロディーも知らなかった。そして、歌が始まったとき、その節がよく知っているものだったことに仰天して、しばらく声を失った。
多分、その議員さんが、わが家に遊びに来た帰りなどに鼻歌で歌っているのを聞いていたのだろうと思うが、とにかく私はどこかでそのメロディーを聞いて、知っていて、本の中で目でおなじみになっていた、その歌詞とばらばらに覚えていたのである。
私の現実と読書、体験と空想は、時々そうやって思いがけない交錯と邂逅を私の中で小さく爆発させる。

十年ほど前から私は、子どものころから、読み損ねたり読みさしたりした本が奇妙に気になって、どういう内容か知っておきたくなり、高校のころ文庫本の目録でいつも目にしていた「失われたときを求めて」を全巻読み終え、中東戦争の地名を見るたび、書名を思い浮かべた「ガザに盲いて」も古本で読み、子どもの本の文学全集で読み残していた「ローランの歌」を同じ文学全集で注文して読んで、行ったことのないパリやヴェニスをひと目見たような満足感にひたった。それが高じて、本当に子どものころ、お手伝いさんの部屋に遊びに行って「平凡」「明星」といった雑誌の連載小説を断片的に読んでいた、その全容まで知りたくなった。
今なら絶対あり得なさすぎる設定だが、有名な音楽評論家だか何かの女性にうり二つの貧しい無名な女性が、野心家の男性に利用されてその有名な女性になりすます「夜の真珠」(大仏次郎の短編とは別)は、織田勇という作者名はわかったが、出版されてはいないようで、「明星」のバックナンバーでもあさるしかなさそうだった。
もうひとつ私が覚えている、皇室のことをよく小説にしていた小山いと子(この人は「美智子さま」という小説も連載していて、皇室からのクレームで連載が中止になった。母がそれを知って、中止になるだいぶ前の部分で、美智子さまが皇族の何とか宮さまの女性から意地悪されたというストーリーもあったのを「私もあんなこと書いていいのかと思っていたのよ」と祖母と話していたっけ。たしか週刊誌などでは作品の内容に美智子さまが沈んでおられたのが原因とかあったようだったが、皇族の方は「明星」を読んでたってことだろうか)の「私の耳は貝の殻」という小説は、単行本がネットで一冊だけ見つかったので、注文して読んでみた。
そうしたら、これがなかなか面白い。奔放で野性的な主人公の美少女もキャラが立っているし、引き上げ船の着く港から始まって、サーカス団やら富豪の屋敷やらテレビ局やら、時代色が満載なだけでなく、あらためて痛感するのは、作品全体から吹きつけてくるような、登場人物すべての潔さとパワーだった。こんな小説が書かれ、読まれていた時代の社会全体の、荒々しいさわやかささえ感じた。

そうこうしている内に「武器なき戦い」もDVDになっているのを知って、おっかなびっくり注文してみた。手元には届いたのだが、忙しいのと何だか恐いので、まだ実は見ていない。「インターナショナル」の時と同様、目で見て愛したことばや情景が、耳からも注ぎこまれてひとつになる、この体験にたちむかう心の準備ができてない。
とにかく、あれです、頭の中にたまっている記憶のもやもやを整理して片づけようと思ったら、こうしてものがまたあれこれと、増えて行ったりもするのです。(2018.5.27.)

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カツジ猫