(49)定規まみれ
江戸時代の古い文献を見に、各地の文庫や図書館を回っていると、欠かせないのが書物の大きさを測るものさしだ。メジャーでもいいのだろうが、本をいためることもありそうで、私は自分の先生たちに教えられた通り、古臭い木のものさしを使っていた。
貴重な書籍のある、めったに行けない遠くの文庫に着いて閲覧室で本を開き、さてメモをとろうと思ったとき、ものさしを忘れてきたと気づいてぎょっとしたことも一度や二度はある。そういうときは、自分のノートに本を載せて、鉛筆でノートに印をつけてあとでそれを測ったり、たまたまなぜか持っていた糸をかわりに使って結び玉を作って目印にして、大事に持って帰ったこともある。
そこまでぎりぎりになる前に、忘れたことに気づいたら、そのへんの店でものさしを買う。国会図書館の売店でも何本か買っているし、他のどこかで手に入れたものも多い。今、荷物を片づけていると、そういう木やプラスティックのものさしが、それこそ、うんざりするような量で出て来る。
さすがにそれは、誰にでももらってもらえそうだから、寄付をする荷物にも入れやすい。だが、中には私自身が小学校のころに使っていたらしい三十センチものさしに、母が墨で黒々と私の名前を書いていたり、もっと歴史的なものでは、とうの昔に亡くなった叔母や叔父の名と学年が入った学校時代のものさしが、何本も堂々と出て来たりする。いったい、どういう家なんだよ。それに、そうなると、あらためて思うが、ものさしというものは本当にはやりすたりのないものなんだよなあ。ちゃんばらごっこはしないにしても、これだけ長いものさしだと、何かをひきよせたり、払い落としたり、いろんな用途に使われたこともあったのではないかと夢想したりする。
ある程度の長さのあるものは、そうやって使った記憶も増えた経緯もわかるのだが、どうしてこんなにたくさんあるのか謎なのが、筆箱の中に入る程度の短い定規である。どこからでも、いくらでも出てくる。
大人になってからは使った覚えも買った覚えもないから、それこそペンケースに入れるために買った、高校生までのものなのだろう。友人や学生の持っていたものが、まぎれこんだのかもわからない。
とにかく、これも寄付するのには何も問題がないので、せいぜいそういう荷物のなかに入れて処分していた。
ところが、いつからか、あららという感じで、机のわきの物入れに、この小ぶりの定規が数本入っているようになった。
何に使うかと言えば、これもまた、山とたまった絵葉書の処分で、友人にせっせと他愛もない内容の便りを出し続けているのだが、絵葉書だから表の下半分に文章を書かねばならない。その時に、宛名の部分と区切る線を引くのに、こういう、小さな定規がいるのだ。
絵葉書もいろいろで、薄めのものだと、きつく線を引くと、表に少し現れることもある。そうならないよう、軽やかに一気に引くには、やはりしっかりした定規がほしい。
別に甲乙あるのではないが、何本かあると、気分転換になっていい。と、いうわけで、由来も何もない古びた小さい定規たちが今、私の手元で毎日、新しい歴史と記憶を作って行っている。(2018.6.5.)