(58)ついに、この日が!
タイトルが仰々し過ぎて自分でもひるむが、他愛ない自己満足の話ですから、そのつもりで読んで下さい。
これまで何度か、家じゅうのいたるところから出てくるポケットティッシュを、緑色の水差しのような器に入れてテーブルにおき、紙ナプキンみたいにして使ったら、快くカッコよく、どんどん減って順調にはけて行くのがこたえられないという話をした。本当に、ただならぬ量のティッシュがたまっていたのだが、最近私が街にあまり出ることがなく、ティッシュをもらう機会も少なくなったせいもあって、最近、ついに、ついに、家じゅうからポケットティッシュが消えた!
こうなった時にどうするかは前からときどき考えていて、やっぱり、あると便利なので、百円ショップにポケットティッシュが売ってあることを確認して、いざとなったら買うことにしようと思っていた。それで何となくうきうきと出かけたら、何と、さまざまなポケットティッシュが売ってあって、トイレに流せるものまであった。
これは便利だなあと感動したが、これに慣れてしまうと、うっかり普通のティッシュも流しそうで、やっぱりやめておこうと思って、普通のを買った。しかし、流せるティッシュというのも一応欲しくなって、それも買ってしまった。もちろんものすごく安い買い物だが、私はつくづく好奇心には勝てないと思いつつ、すごい贅沢をしたような気がした。
ティッシュを器につめこんで、写真をとろうかと思ったが、悲しいかな、前のと見た目はまったく同じだから、あらためて撮る意味もない。
かわりに、似たような、「ついにこの日が」というものを少し紹介しておこう。
まず、洗剤。環境に配慮して、せっけん洗剤とか使っていたのだが、もう十年近く前に当時の新聞販売店が、一年分まとめて払っていたこともあって、その集金日に大きな洗剤の詰め合わせを持って来てくれた。よくある中性洗剤だが、とにかく十個ぐらいの箱が詰め合わせてあった。
うれしかったが、いつ使おうかと思っている間に、しまいこんで忘れてしまい、出て来た時には半分近くが、しめってかちかちに固まっていた。
私は、負けてなるかと思って、叔母が遺した薄緑色の入れ物がいくつかあるのを洗剤入れにして、毎回、紙箱の中を突っついては砕いて、何とか使える固まりにしては、その器に移して使っていた。
洗面所の洗濯機の横に、山のように積み上げていた箱は、一向に減る気配もなく、これがなくなる日が来るのだろうかと時々思いながら、ねっとり固まった洗剤を掘り崩しては入れ替えていた。幸い、効能には何の問題もなかった。
それも、徐々にだが減って行き、ついに最後の一個が消えた。空になった薄緑色の器を洗って干して乾かして、代わりの洗剤は何にしようかとスーパーに物色に行ったが、詰め替え用の同じ洗剤があって、つい買ってしまった。もちろん新しい洗剤は、さらさらと白い砂のように軽やかに袋から器の中に流れこんだ。やったやん、と、洗面台の下に重ねた洗剤入れをながめながら、私は悦に入っている。
多いと言えば線香の量もはんぱじゃなかった。田舎の家に仏壇はあったが、母はお盆にご住職がお参りに来て下さるとき以外には、線香を立てて拝むことなどまったくしなかったし、いろんな機会にもらう立派な線香の箱が、仏壇の引き出しにはいっぱいにあふれて、そばに重ねてあった。
叔母の家にも叔父が亡くなるまで仏壇はなく、叔父のためにものすごい上等の黒檀の小ぶりな仏壇を買った叔母も、あまり拝んでいた風ではない。そして、これまたたくさんの知り合いの方々から、見ただけでも恐ろしく高級そうな桐箱や漆箱入りの線香が届いていた。
私はこれもまた、せいぜい使いつくすしかないと思って、田舎の家から荷物をあらかた引き上げて、叔母の仏壇を自分の家の一室においたころから、毎朝線香を立てて拝むことにした。母がまだ田舎にいた頃から、帰省するたびに墓参りをして、その時も線香は焚いていたが、その程度では、この量ははけないと思ったからだ。
何となく、だんだんそうなると、皆の供養をしているのか、線香を消費するためにやってるのか、目的が自分でもよくわからなくなるのだが、とにかく毎朝線香に火をつけては、鉦を鳴らして手を合わせて、無事や健康や仕事の成就や政府の転覆を願っていた。
ところで、ろうそくも、これまたかなりあちこちから出現しては、うんざりするものの一つだった。お墓に持って行ったものの残りか、ぐにゃりと曲がったものや汚れたものや折れたものも、よく出てくる。
それも、ついでに、燭台に立てては灯して、線香をつけるのに使っていたら、次第に減ってきた。何よりもティッシュと同じで、どこかのすみから見つかったとき、よしよしと使えるところに持って行けるのが精神衛生上とてもいい。
それで言うならマッチも同じだ。田舎の家からも叔母のマンションからも、そして私自身の荷物の中からも、いつの昔のものかわからないマッチが山ほどまとめて袋や箱に入ったまま出てくる。
まあ、蚊取り線香や石油ストーブやオイルランプの点火に使うから、需要はそこそこあるけれど、とにかく古いので火が付くかどうか、やってみないとわからない。
すりつける箱が新しければ、何とか点火するものもあるので、新しいマッチもスーパーで買ってきた。その箱を使えば相当に古いものでも点火する。とは言え、もちろんだめなのもある。
そうやって試していると、マッチと言えども個性がある。わりとあっさり火はつくが、軸木に続かず、すぐ消えるものもあれば、しっかり火勢を保って燃えるものもある。古くなればなるほど、マッチ箱の数ほど、それぞれの燃え方の個性が浮かび上がるのである。
恐いのは、燃えたか消えたか微妙なままのもので、それは一応ろうそくにつけて、しっかり燃やしておくことにしている。
マッチ箱の意匠はさまざまだが、今のところこれと言って「いったい、どこのどういう店なの?」と気になるような、怪しいものは見つかっていない。むしろ私自身の思い出がまつわるものが時々見つかる。「シルバーイン」というホテルのマッチがいくつかあって、これは東京に資料調査に行ったとき、何度か泊って常宿にしていたビジネスホテルだ。まだそのころはネットなどもなくて、「全国ホテルガイド」みたいな冊子で私は宿を選んでいた。ここを選んだのは、そのころ出入りしてなかば飼い猫になっていた白猫が、「シルバー」という名前だったからである。彼はまもなくいなくなり、ホテルも何年目かにかけたらつながらず、どうやら廃業したらしかった。
私が毎朝座って拝む仏壇は、叔母の使っていた立派なものだが、引き出しは固くて閉まらなくなり、何度も引っ越したせいで、あちこち傷ついてもいる。まあしかし、おかげで、線香もろうそくもほぼなくなり、マッチもかなり減ってきた。ときどき歌舞伎を見に行ったときに、劇場のロビーで売っている、いい香りのする線香を買っては補充したりしている。何となく、膨大な量のマッチや線香やろうそくや、それに連なる思い出が全部この小さな仏壇に吸いこまれて行っているような気がするのは、呪いや愛や悪行が、短剣や帽子などのアイテムに吸いこまれて消えてしまうSFっぽい海外ドラマの影響だろうか。
他にも、気が遠くなるほどあった紙袋、ビニール袋も、古紙やごみを出すのに使っている内、さすがに少なくなって来た。昔から思うことだが、私は何かを新たに作り出すよりも、消してなくして行く方に達成感を感じがちだ。こんなことをしていると、その傾向に、ますます拍車がかかるかもしれない。(2018.8.15.)