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(59)もふもふ玄関

私は古い家と新しい小さな家と、二軒の家を使っている。その古い方の家の玄関が、ちょっとごちゃごちゃして来たので、何だか心もすさんで来た。嘘でもいいから玄関だけは、一応きれいにしておかないと、気持ちがくじけてしまいそうになる。
もう絶対に家具は増やすまいと思っていたのだが、思いきって、近くのスーパーのアウトレットで、ひとつまちがったら非常に悪趣味になりそうな、アンティークめかした棚を買った。色とりどりの四角な引き出しが九つついていて、それぞれに大きな数字がついている、ある意味すさまじいしろものだ。安かっただけあって、材質も怪しげで、引き出しの出し入れも少しがたつく。とは言え、何となく私の玄関には合っていて、次第にこれしかないような気もして来ている。
配達が混んでいて時間がかかりそうだと言うので、けっこうな大きさなのを、自分で車に積んで帰った。引き出しをはずしたらいけますよとアドバイスしてくれた店員は、駐車場まで台車で運んで来てくれた。

安っぽいものだからこそ、すっきりとしておきたくて、上には叔父のものだったライオンの置き物以外には何もおかず、ついでに向かいの下駄箱の上のものも片づけた。私はごちゃごちゃおいているようでも、実は一センチ基準でかなり神経質に物を配置しているのだが、それが高じて結局雑然としてしまっていたので、置くものは少なくして、ちょっとしたものはすべて、そのにせアンティークの棚の引き出しに入れるようにした。

下駄箱も安物なのだが、壁にぴったりつけられないので、背後と左右がちょっと空いている。ここに物が落ちこんだら、下駄箱を引っぱり出さなくてはならないし、はずみにこわれたら困るから、あまり大事な小さいものは置けない。
そうこうしている内に、ふと、昔、田舎の家の仏壇の横に適当に置いてあった、それ以前もあちこちに置かれていたが、あまり印象に残らなかった小さい古い飾り棚を、ここに置けないかと思いついた。今は、古い家の猫のいる部屋の本棚において、古いフィギュアなど入れていた。そのフィギュアを、新しい家の壁に飾ったので、中が空になり、もしそれを玄関に移動させれば、その本棚の一角も有効活用できるし、何もかもめでたいではないか。試しに運んでおいてみたら、大きさもちょうどよかった。

さて、ここからが問題である。
飾り棚は、これまで適当に扱われていたし、もともと大した品ではなさそうだし、見るからにくたびれていて、安っぽくて、ぼろい。だいたい私は、この手の飾り棚が魅力的に使われていたのを見たことがない。こけしとか、だるまとか、見るからにしょうもないものが、行き場を失ったあげくの吹き溜まりという感じで、雑然とつめこまれているのが普通だ。
だが、その安っぽい、しょうもなさが、向い側のにせアンティークの棚とあいまって、一種ふしぎな雰囲気をかもし出したら、それはそれで面白いかもしれないと思った。少なくとも、中に入れるものを工夫すれば、何かそれなりに、普通でない感じは出せるのではないかと考えた。

叔母の遺したものや、自分が買ったりもらったりしたもの、祖父母の代から田舎の家にあったものの中には、それなりに(多分)高価なものや、珍しいものや、美しいものもある。
だが、そんなのを置くと、逆に棚のみすぼらしさにひきずられて、その品々までが安っぽく見えてしまうだろう。第一、人がかなり出入りし、開け放しておくこともある玄関に、なくなったら困るような貴重なものは置けない。
適当に魅力的で、大切だが、あまり高価そうではなく、なくなったり壊れたりしても、絶望したり、その原因を作った人や動物を恨まないでもすむようなもの、しかも、それなりに、テーマや統一感が感じられるようなもの。
母の干支である馬の置物や、叔母の干支である鶏の置物なら、大小かなりあってそろうだろうが、それもあんまり面白くない。ソ連製の小さい木の人形など、外国のおみやげ類や、昔のこけしを並べてもいいかと思ったが、ちょっと、ありふれすぎる気もした。

結局、家のあちこちにあった、ケースもなくて、ほこりをかぶってしまいがちな、もふもふの置物を、すべて集めてみることにした。外国旅行によく行く友人が、まだ若いころ、最初に近い旅の土産にくれた、まったく何だかわからない、まっ白い毛のかたまり、叔母夫婦のお供でニュージーランドに行ったとき、土産に買ったけど、あまり喜ばれなかったキウイの置物(何の愛想もない茶色のかたまりで、でも、動物園で見た実物は、ほんとに絶対こういう姿だったのだ。まあ昼間で、夜行性だったからかもしれないが、とことん陰気で地味で、やる気がなさそうで、あれじゃそら絶滅しかけるだろうと、つくづく思った)、同じ旅で買った小さい羊、叔母が持っていた、どこか日本の白い羊、などなど。棚にはまだ少し空きがあったから、ニュージーランドには蛇がいなくて、妙な毛皮の切れ端をつなぎあわせて、ガラス玉の目玉をくっつけただけの、蛇のおもちゃというのを買ってきていたので、それも一番下に押しこめた。

これだと、ほこりをかぶらないという実際の役にも立つし、何となく得体のしれない感じなのが、私としては気に入っている。
こうして、新しい玄関が、それなりに出来上がった。これまで置いていた、田舎の家の応接間と玄関にあった、思い出深い由緒ある、でも他人の目にはがたがたの古い傘立てと花台は、どちらも書庫に入れて、それなりにカッコよく使っている。まだ書庫は散らかっているので、もう少し工夫するが。

あらためて、最高の晴れ舞台にいきなり抜擢された、古い飾り棚をながめていると、田舎の家のどこにいつから、これが出現したのか、まったく思い出せないのに驚く。私が幼いころにはなかったし、何かを入れるために母がどこかで買ったのだろうか。叔母が持って来たのだろうか。
一時期は、いろりがあった居間の置き床の上にあったような気もするのだが、その後私が家の管理をするようになってからは、何となく始末に困る、やっかい物だった。
それでも、手放さず持ち続けていたのは、例によって、誰かにあげられるようなものではなかったし、一度も真剣に使うことなく処分するのは、何だか口惜しかったからかもしれない。

飾り棚の横にあるのは、親しい人からいただいた置物で、抱えている小さい壺には、花を挿そうと思いつつ、適当なのが見つからなくて、叔母の毛皮のブローチを入れている。上には、私が買った革製の馬の置物と、ソ連製の人形などをおいているが、これは適当に時々入れ替えるだろう。

手前の小物入れは、これも親しい人の外国土産、まん中のガラスの入れ物に入っているのは、がらくたの中から出て来た、私の小学校の夏休みの宿題の貝殻の標本の残骸。よく見ると、「はまぐり」「つめたがい」などと、子どもの私の字で、名前が書いてはってある。一番右側のは、叔母の遺した物の中の銀製か何かの壺だが、ふたがどうしても見つからない。結局花びんに使うことにして、似合いそうな造花をいろいろ探して、結局これに落ちついた。

ところで、この棚に入れる候補だった、さまざまなこけし類も、その内何とか面白い飾り方がないかと考えている。今は適当に、あちこちの棚においていたり、箱に放りこんだりしているが、どうも目障りで、気がかりなので、何とかうまくまとめて使いたい。これは当分の宿題である。(2018.8.18.)

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カツジ猫