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(60)風を呼べ!

今年の高校野球の日程も残すところわずかとなった。昨日の金足農高が最終回に逆転したのを私はラジオで聞いていたが、スタンドの盛り上がりはものすごく、その大半がリードされている金足農高への声援だったようだから、相手チームはたまったものではなかったろう。何日か前の毎日新聞では、スタジオの「判官びいき」の大応援が、相手チームに相当のプレッシャーを与え、「僕たちは嫌われてるんだな」と思ったという選手の談話も紹介していた。

母がまだ田舎で一人暮らしをしていたころ、川柳のサークルに入っていて、残っている短冊やノートに書かれた習作を見ていると「甲子園敗者にエールまた来いよ!」などという句があったりして、弱者や敗者にひいきするのは昔から高校野球の伝統ではある。今でも覚えているのは、まだ日本に復帰していない沖縄から戦後初めて参加した首里高校への、球場全体の応援のすさまじさで、たしか、それに圧倒されて相手チームは二校ぐらい負けたのじゃなかったっけか。私は多分まだ小学生ぐらいだったが、あまのじゃくで、へそまがりだったから、その熱狂について行けず、反感を抱き、相手チームに同情した。何度目かにちゃんと相手が勝ったときには、むしろほっとした。

甲子園の砂を記念に持ち帰ったのは、その時の首里高校が最初だったのじゃなかったっけ。そして、沖縄はまだ外国だったから、その砂は検疫でひっかかり、船上から海中に皆捨てられてしまったのじゃなかったっけ。その映像を週刊誌で見たような記憶がある。ナインには同情の声が集まり、代わりに甲子園の小石が贈られたりしたはずだ。
そんなことを覚えていると、今の高校生が「球場全体が敵」とか「自分たちは嫌われている」とか嘆いているのが記事になるのは、いい時代になったものだとも、ちょっと思うし、ぜいたく言うな、勝負の世界では憎まれるほど強い存在になるのが理想じゃないかと、つねづね横綱の白鵬に会ったら言ってやりたいと同じことを思ったりもする。

少なくとも私は、首里高校や金足農高が受けたような応援や声援は、きっと受けてもあまりうれしくはない。かと言って、強い方や勝つ方に声援するのもまた嫌いで、もしかしたら要するにローマのコロセウムのような観客席の民衆は基本的にいやなのかもしれない。ときどき、サッカーとかが罰として観客なしの試合をさせられたりするが、私は本当はあんな試合が一番やりたいのかもしれない。

まあどっちみち、私自身はまったくの運動神経ゼロの人間だから、関係ないような話だが、ただ、大学や学界で、妙に人を勝手にライバル同士にさせて話題にしたり比べたりする先輩後輩が私はむしずが走るほど大嫌いで、それにまた乗っかって妙な対抗意識を持つやつがいた日には、迷惑なんてもんじゃなかったから、その気分も少し反映しているだろう。もちろんそれは、学問の世界だけではなく、日常生活や社会生活の場でも同じで、人と比較することでしか自分の価値を確認できない人間ほど、うるさくて邪魔なものはない。

沖縄が日本に復帰し、高校野球の代表チームも次第に他県と変わりないほど強くなってきて、最初のあの、恐ろしいほどの判官びいきの応援は、もう考えられないほどになったのは、私をほっとさせた。とは言え、そのころ、日本全土が沖縄に寄せていた熱い激しい愛情を、あらためて思い出すと、それもまた、時代は変わって来たなと思う。沖縄を犠牲にし、その苦しみに目をつぶることでしか、自分たちの生活を守れないようなところまで、私たちは追いつめられてしまっているのか。損得も考える余裕がなく、手放しで無邪気に全身で、首里高校とその背後の沖縄を応援していた日本人の心を、今の私はあらためて、なつかしいとも感じている。

私が沖縄に行ったのは、就職後、九州の福岡教育大学に戻ってきてからだ。学会と会議で、たしか数回訪れた。どちらも仕事先の大学と街を少し歩いただけで、戦跡などにも行っていない。
それでも、最初に行ったときから魅了された。暑い地方ということでイメージしていた、陽気さや派手さやパワフルさはそれほどでもなく、むしろ細やかでもの哀しげで、愛らしくかわいらしかった。首里城でもどこでも感じたのは、すべてがいかにも小さく優しく、威圧感がなかったことだ。あらゆる建物の屋根や壁にくっついている守り神のシーサーが、最先端の大学の理科系の建物にもどかっとくっついていたのに笑ったが、そんなシーサーのどれもが、どことなくのんびりのどかな表情をしていた。ああ、こんなにたくさんいたシーサーも、米軍に蹂躙される故郷を守れなかったのだなと思うと、深い悲しみと愛しさがわきあがってきて、しかたがなかった。

私は大分県生まれで、福岡県で長く暮らしているが、どちらの土地も荒っぽくて元気がよく、いつも緊張していないと相手や周囲の迫力に負けそうな気がいつもする。もともと長崎出身の母や家族がなつかしんで、ほめるせいだけでなく、長崎にはもっとひかえめな、はにかんでいるような無防備の優しさを感じていた。沖縄にもまたそれと似たような、やわらかい穏やかさがあった。
不謹慎も乱暴もかえりみず言ってしまうと、こういう優しい場所や人々の上に原爆や爆撃は訪れるのかもしれないとさえ思って、妙に切なく胸がしめつけられた。

最初に訪れたときに、お土産店や空港の店で素焼きや陶器のシーサーをいくつか買いこんでしまったのも、その切なさのせいだった。
素焼きの一対を好きだから買ったら、お店の人から、雪がふるような寒いところでは、戸外に置いたら割れるかもしれないと注意されて、私は買ったばかりの小さい家の門柱につけたかったので、別に陶器の一対も買った。叔母への土産に少し大きめの一頭だけのを買ったのは同じときだったか覚えていないが、とにかくシーサーの大群を抱えて私は飛行機に乗った。

陶器の一対は、さっそくコンクリボンドで門柱につけた。以後何十年も彼らはそこで家を守ってくれている。素焼きの方は外に出せないまま、家のあちこちを転々として、今はその後新しく建てた小さい家の玄関にいる。
叔母は立派なマンションの玄関にずっと飾ってくれていたが、亡くなったあと、また私のもとに来た、一番大きなそれを、私は新しい方の家の、道路からとっつきの一角に、大工さんに頼んで固定してもらった。もう七年近くなるが、私が塀にくっつけた人形ともども、無事にわが家の見張り番をしてくれている。ごくたまに、カマキリやバッタがとまっていることがある。

門柱の上には、三毛猫シナモンがよく私の帰りを待っていて、茶色のシーサーの一頭に身体をすりつけるようにして座っていたが、彼女も数年前に死んだ。彼女といっしょになでてやったシーサーを今でもときどき私は通りがかりにさわっている。
最近では、庭の工事に来てくれている若い人が、蚊の来襲に対抗して焚く蚊取り線香を、いたずら半分、シーサーのしっぽにはめていて、これが奇妙に似合うので私は大笑いした。何だか風でも起こしそうで、カッコいい。ひょっとして、蚊取り線香が燃えつきるときに、しっぽが焼けはしないかと心配になって後で調べたが、若者はその前にちゃんとはずしたらしく、別に焦げ跡も残っていなかった。

それにしても、これだけ日本が温暖化したら、素焼きのシーサーだって外に置けるんじゃないかと毎年思うのだが、冬はやっぱり寒いからなあ。大事をとって、当面はまだ家の中においていた方がよさそうだ。(2018.8.20.)

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カツジ猫