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(61)おうちのかわり

今年の一月に田舎の家を売った。二軒あった内の古い方は友人が以前に買ってくれていて、今度は残っていた比較的新しい方を、とてもいい方に買っていただいた。確定申告に行ったとき、担当の人に「田舎の家を売ったんですが」と来年の税金の相談をしたら、「ええっ、どちらにあった家ですか。今どきよく売れましたね」と驚かれた。つくづく、ありがたいことである。墓参りに行ったときなどに立ち寄って、お茶などごちそうになるが、家の中はほこりひとつなく、庭には草一本もなく、私が住んでいたときとは大違いで、家はさぞ喜んでいることだろう。実際帰るときに車で走り去る私を見送って、家が何だか笑っているように見えることがある。

ありがたいと喜んだついでに、私は家を売った記念に何かささやかなものを買おうと思い立った。
古い方の家を売ったときは、最後の手続きをしに銀行に行く前に、近くの駅の商店街の店で、かねてほしかった白い夏の帽子を思いきりいくつも買って、今も愛用している。
今回はまた趣きのちがうものにしようと、よく行く近所のお店で、お洒落な雑貨の間にひっそりいつも置かれていて、花の鉢などかけてある、緑の鉄製の三角錐のようなラックに目をとめた。昔からずっとそこに溶けこんでいるし、売りものじゃないのではと思ったが、ちゃんと売ってくれた。アンティークとしては私にも手が届き、しかも家を売った記念としてふさわしい、理想的な値段だった。ただひたすらに、かたちや雰囲気が気に入って求めたので、そもそも何に使うものなのかと尋ねたら、外国のアンティークで、なべを置いたりかけたりする、台所用品だとのことだった。

私の家は家具が増えすぎて、ぎちぎちに狭い。まあでも台所の鍋の置き場は今ないし、うまく使えば有効利用できるだろうと、たかをくくって持って帰った。明るいこってりした深緑色のたたずまいが、何とはなしに気に入ったこともある。
ところが、台所に持って行く前に、私が食事やお客さんとの応対に二つ並べて使っている、丸いテーブルの間にちょいとはめるようにおいておいたら、それが奇妙にしっくりした。二つの机を微妙に区切ってへだてる感じも、緑色だけにパーティションの鉢植えめいて悪くないし、引き出しがわりにいろんなものを置くのにも便利そうだ。
というわけで、このラックは結局台所には行かないまま、仮置きの場所にそのまま定着した。

三角ラックなので、何かを置こうと思ったら、かごか板かを棚がわりに差しこまなくてはならない。しかし、新聞雑誌や読みさしの本を置いてマガジンラックのように使いながら、その上に何かを乗せておけばいいし、周囲の爪か角のように突き出した突起には、帽子やバッグもひょいとかけておける。便利過ぎて、下手すると物がいっぱいくっついた、変なクリスマスツリーのようになってしまうので、そこは気をつけないといけない。

私はこれが、もともと鍋を置くための台所用品というのを忘れたわけではなかったが、アンティークだし、誰もそんなことは知らないだろうと思っていた。ところが先日、歌舞伎を見に行った帰りに劇場近くの地下街で、時代の先端のものをそろえているようなお洒落な家庭用品のインテリアショップをのぞいていたら、ぴっかぴかの最新の包丁や食洗器やレンジや、その他用途も不明な最新の機器にまざって、私の緑色のラックとまるで同じかたちの銀色に輝くラックが置かれていて、ちゃんと、鍋を置いたりかけたりするものという説明書きがついていた。あー、あいつの同類は現役ばりばりで活躍してるんだと、私はしばらく立ち止まって見とれていた。ばあちゃんやじいちゃんの昔話を聞いていた子どもが、同じ仕事に従事して活躍している若者を見たみたいな気分だった。

帰って「あんたのお仲間がいたよ」と緑色のラックに教えたが、あいかわらず私はこれを、机の引き出しやマガジンラックがわりに使っている。
最近、もうひとつ嬉しいことには、捨てようとしては捨てきれず、家の中のがらくたのあっちこっちから、ああまたかよという感じで登場してくる、お菓子やお茶が入っていた、木箱のふたや、本体を、このラックにはめこむように置いてみると、非常に都合がいいことがわかった。ポケットティッシュの時と同じように、今まではじゃまで困って、でも捨てきれずにいたものを、もう他にどこかにないかと探し回る心境ほど、快く前向きになれるものはない。ななめにしたら、すぐはずせるが、いったんセットすると微妙にはまって、決して抜けたり落ちたりしないのもすばらしい。
ただの木箱やふたでは少し淋しいので、これまた、いやになるほど余っている、いろんなシールをぺたぺた貼って、木箱やふたの周囲をデコレーションした。これもまた、悪くない。シールの処分にも絶好だった。

思えば田舎の古い家は、祖父母がまるで知り合いのいない新しい土地に来て、何となくあたりが気に入った祖父が、いきなりそれこそ衝動買いして以来、百年近く家族が暮らした家だ。私を生むのに里帰りした母が、そのまま何となく「別にきらいでも悪い人でもなかったんだけどねえ」という夫(私の父)のもとに帰らず、脱力するぐらいどっちもあっさり離婚してしまって、以後祖父母と母と私でずっと住んで来た家だ。たくさんの動物や鳥も、そこで生きて死んだ。
もともとは畑だった隣り合う土地に、いろいろな手続きをして母の隠居所代わりの家を建て、大工さんと相談しながら完成させ、以後も何とか守ってきたのは私だ。隣り合う二つの家、それをとりまく川や神社や、遠い山。すべては私と、私の家族の人生に、ふさわしい役目を存分に果たした。そして今、また新しく愛して下さる人たちのものになった。
家も土地も私も、それぞれの役目を終え、次の時代への歩みを始めた。そして私の手元には、この緑色のラックが残った。

もちろん、これを手放す日もいずれまた来る。だが、それまでは、あの家に守られて育ち、あの家を守って奮闘した日々の代わりとして、このラックをながめていたい。古めかしいようで新しい奇妙なかたちは、あの二軒の家のたたずまいに似て、独特の緑色は、幾重にも家をとり巻いて、どの窓からも見えていた木々の葉末と同じだ。そう言えば、油断するとたちまちに、いろんなものをどんどん載せたり掛けたりして、あっという間に雑然としてしまいそうなのも、忘れもしない、あの二軒の家でしばしば起こって、私を悩ませていた事態とそっくりである。(2018.8.21.)

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カツジ猫