(62)金魚のいる家
今年の初め、田舎の家を売ったのをきっかけに、わりと長いこと続けていた、母や祖父母関係の方々へのお中元とお歳暮をやめた。もともとそんなに数多い贈り先ではなかったが、年賀状と同様、今後は次第にそういったおつきあいは、減らして行こうと思ったからだ。
ただ、しょうもないことで、ちょっと残念なのは、盆や年末の帰省に品物を持ってごあいさつにうかがうとき、何軒かのお宅の玄関でいつも対面していた、大きな金魚や立派な老亀に会う機会がなくなったことである。一軒の家では、何十年も飼っておられて、なついて人のことばもわかるという亀が、玄関の小さい水槽の中で気持ちよさそうに甲羅干しをしていたし、別の家では、長い間に大きくなったというみごとな赤い金魚が、やっぱり普通の水槽のなかで、ゆうゆうと大きなしっぽをひらつかせていた。
亀も金魚も私の田舎の家では飼われていたが、遊びに来た親戚の子が石でたたいて殺したり、金魚鉢に入れて一時間もしないうちに猫に皆食べられたり、彼らにとってはあまり幸福な場所ではなかった。私が大人になる頃からは、たしか一度も飼われていない。
私自身は院生のときに暮らしていたアパートで、亀も金魚も飼っていたが、亀は何だか元気がなくなったので(今思えばただの冬眠だったのかもしれない)、近くの川の上流に行って川辺で放したら、えらい勢いでまっしぐらに水の方へ行ってしまって、ほっとしつつも淋しかった。金魚の方は、赤いのと黒いのと、どちらも一番安い五十円ぐらいのを買ってきて、一匹ずつ水槽に入れ、ものすごく大きくしてやると野望を抱いていたのだが、長期の帰省か旅行のときに、世話を頼む人もなく、困って近所のペットショップに(預かりはできませんと言うので)引き取ってもらった。
赤い金魚の方は、買ったときよりたしかに大きくなっていたのだが、上から見ると、左右が不ぞろいで、胴体の片側がもう一方より大きかった。病気のようでもなかったから、あれはああいう個体だったのかもしれない。形が左右均一でなかったから、その他大勢の水槽に振り分けられていたのかもしれない。
私は彼らを大切にして、寒い冬には自分が編んだ毛糸のカバーを水槽にはめて、訪れる友人たちから思いきりバカにされていた。
もう五十年近い今、がらくたの中から、その毛糸カバーのひとつが出てきたので、笑いながらも捨てかねて、机の下で足置きに使っている、イギリス製とかのドアストッパーの犬が、冬は靴下越しでも足が冷たいので、その胴体にはめている。
猫を飼い出してからは、金魚は飼ったことがない。熱帯魚は温度の管理などをする人間の責任が重すぎて何だか息苦しく、立派な料理店のいけすの魚は、海には絶対帰れないのだよなと悲しくなって、どちらも虚心に鑑賞できない。金魚にだけはそれほどの悲しみを感じないでいられるのは、野生の彼らを想像できないからなのだろうか。ちなみに江戸時代には、年を経た金魚のことは銀魚と言うそうだ。
少し前に、街に出たとき、よく立ち寄って和紙を買うお店で、京都かどこかから来たらしい陶器の丸っこい金魚の置物があった。水に浮かべて楽しむものということで、気に入ったから黒と赤と二匹を買って、黒い陶器の丸い器に入れて、玄関先において楽しんでいた。
そうしたら、一昨年あたりのものすごく寒い冬に、器の氷がかちかちに張りつめ、解けた時に見たら、金魚は二匹とも砕けてしまっていた。私はものすごくショックだった。どうもわが家は金魚にとっては受難の場所にしかならないのではないかと、幼い日に田舎の家の机の上で、さっきまで金魚がひらひら泳いでいた丸い金魚鉢が、ふと見たら少し濁った水だけが光を浴びていた、猫に取られた直後の映像までよみがえって、落ちこんだ。
修復不可能なまでに砕けた二匹の金魚をどうしたか覚えていない。子どものころの私は映画「禁じられた遊び」や小説「めぐりあう時間たち」なみに、死んだ金魚や、祖父のカナリアを、庭に埋めて花をそなえて讃美歌を歌ってお葬式をしていたが、もうこの年になって、まさかそれはしなかったと思う。買ったお店にはもうその金魚は置いてなく、ネットで探したが、いまひとつ気に入らなかった。
その内に近所の不燃物置場で、ガラス製の赤と緑の金魚を見つけて、つい持って帰った。そういう持ち帰りは禁じられていることを、まだその時は知らなかった。そんな規則そのものが、まだできてなかったかもしれない。
今度は氷で砕かせるようなへまはしないぞと思って、冬は取りこむようにしていたら、何年かたつ内に、今度は白っぽい水垢がついてしまって、これがもう、どうしても取れない。近所のホームセンターで相談して、皇室関係ご用達みたいな強力な鏡の汚れ取りを教えてもらって、それで磨いていたら、やっと少し回復してきた。
やっぱり水に浮かせて庭に置くには、それ相当のものでなくてはいけないのだなと反省して、ガラスの二匹は玄関の一角に立派な器をおいて熱帯魚用の砂を入れ、水なしでそこに入れておくことにした。
実はこの器も、田舎の家の大きなお座敷に、貫禄負けしないものを置きたくて買った、ちゃんとした作家さんのものだ。広々とした座敷の中央に鎮座して、立派にその役割を果たしていたのに、田舎から引き上げたあとは、私の今の小さい家では置き場が決められないままに、つい庭先に置いてしまって陽ざらし雨ざらしにしていたのが恐れ多い、れっきとした芸術品である。今回、二軒ある家のの古い方の玄関に、こうやって置くと、本来の重々しさを発揮して、よい雰囲気を出してくれた。ここで、ガラスの金魚が無事に余生を過ごしてくれるといいがと思いつつ、やっぱり庭にはそれ専門の水に浮かべる金魚がほしいかも、と性懲りもなく私は考えている。
結局本物はなかなか長く飼えなかったし、これからも飼えそうにない分、私は金魚にそこはかとない、あこがれがあるのかもしれない。今さらもう生身の金魚と深い関わりを持つパワーはないが、気づくと家のあちこちに、金魚模様のものがある。カルチャーセンターで講座を持っていたころの通りすがりの商店街で、ふと買ったランチョンマットとか、母の老人ホーム用に買って使っていた三枚のタオルケットとか。タオルケットはたしか花火の柄も一枚あったが、それは誰かにあげたらしく、結局金魚のだけが残っている。
この夏はあまりに暑くてベッドカバーも使わなくなった。金魚のタオルケットだけを直接ベッドに広げている。汗ばむたびにとっとと洗うと、あっという間に乾くから、それだけは、今年の猛暑はありがたい。特に何も知らない猫がその上に寝ていると、金魚と平和共存しているように見えるのもおかしい。(2018.8.21.)