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(65)どこにでもある花

行きつけの美容院の美容師さんに、ときどき家の片づけの話をする。最近それしか仕事をしてないから、他に話すこともないのが我ながら嘆かわしい。
田舎の家を売ったことも言ったのだが、あまりにあの家この家といくつも家が登場するので、絶対にわかるわけないなと思っていたら、勉強熱心な人ではあるし、とうとう先日、全容を解明しようと決心されたようで、結局いくつ家があるのか、どこでどうなっているのか、尋ねられた。

なかなかひと口には言えないのだが、美容師さんへの説明もかねて、この機会に大筋をざっと話そう。
私が生まれ育った家は、大分県の田舎にあって、JRの最寄りの駅からは歩いて五分もかからない、川の側の大きな家だ。古民家になりそこねと私は笑って人に言うが、実際に築百年近く、大金持ちのお医者さんが材木の一本まで自分で吟味して買い、庭をとりまく塀は著名な業者と喧嘩しては交代させたため、三つの形式が継ぎ足されており、家の土台は全部御影石か何かで、がっちり固められている、ものすごい家屋だ。

そのお医者さんは他にも派手な生活をほしいままにして破産し、売りに出ていた家を、たまたま通りかかった祖父が、この土地が気に入ったからと、いきなり購入した。何でも一時は暴力団の親玉の手に渡っていて、母たちが来たとき、応接間に恐い顔の親分が座っていたとか言うが、最後は無事に祖父のものになった。祖父もまた大らかというか大ざっぱというか、あまりそういうことを苦にしたり気に病んだりする人ではなかったから、結局うまく行ったのだろう。

その時にどういういきさつでか、いろいろ世話をしてくれた、近所の敬虔な仏教徒である農家の方が、それ以後もずっと家族のように親身になって、よそ者のわが家の相談役になってくれた。村としても、祖父が医者として住みついてくれるのはありがたいと思って下さったのか、皆、好意的で、私の一家を大切にしてくれた。

私はその家で生まれて大学に行くまでそこにいた。樹木のうっそうと茂った広い庭や、朝日が射しこむ広い廊下、私の背の高さをインクで刻んだ居間の押し入れの横の柱、いつも聞こえていた川の水音と、遠い汽車の音、その何もかもが今も自分の一部のように身体のどこかに残っている。
祖父母が亡くなったあと、一人で暮らしていた母は、地域の活動や市民運動にかけ回るのが忙しく、たくさんの猫、室内で飼う犬などで、家の中はこれ以上ないほどのごみ屋敷になって、昔の美しさはほぼ消えた。

家と土地はもうその時は私の名義になっていたこともあって、仕事の合間に私は何とか、その家を片づけて行った。祖父が診療所にしていた一角を、人を泊めたり貸したりできるように大幅に改築、リフォームし、祖父の名前の一文字を取って「留客洞」と名づけた。住宅にしていた部分も何とかきれいにして行って、そこは「ゆきうさぎ亭」と名づけた。知り合いの芸術家の方たちに、文字を書いてもらった木の札を、それぞれの玄関にかけて、心の励みにした。(今はその木の札も皆、後述する「伽羅館」に移動して、家のあちこちにかかっている。)

そうこうする内、祖父の名義のままになっていた隣接する畑の管理が難しくなったので、叔母の遺産の一部を使って、そこを私名義の宅地に変更し(その手続きと費用の大変さは知る人ぞ知るだろうが、結局はこれをきちんとやっておかなければ、後で売ったり譲ったりすることもできない)、母の隠居所と私の定年後の仕事場を予定した新しい家を建てた。叔母の名前を入れて、この家は「南生屋」と名づけた。留客洞&ゆきうさぎ亭のリフォームも全面的に手がけてくれた、ゴッドハンドと言いたいぐらい超腕のいい地元の大工さんが息子さんの建築士といっしょに、ものすごくしっかりした、けれんみのない家を作ってくれて、母と私は喜んで、その大工さんの名前を小さい石板に入れて玄関わきの下の方の壁にはめこんでもらった。

母は工事中に大工さんたちに「十年住む」と宣言していたらしいが、実際には五年目の九十三歳の時に一人暮らしが難しくなり、私の住む町の家の近くで老人ホームに入居した。私が同居していれば、またちがったかもしれないが、定年退職して少しだけ同居を試してみただけで、今後の私の仕事のためには、それは無理だと判明した。母が私をなかなか一人にしてくれないこともあったが、それ以上に、ここで日本中に響くぐらいの大声でどなりまくっておきたいことは、今の介護制度では「同居している家族がいれば、行政のサービスは受けられない」が基本になっているということである。
このことの不合理さ、弊害、不都合、それによってもたらされる不幸の数々は、どれだけ言っても書いてもきりがないので、ここではやめるが、とにかく私がたまに帰省しただけでも、私の姿を見かけただけで、ヘルパーさんは「あっ、おうちの方がおられるなら食事は作れません」と言って引き返して帰るというような、胸くそ悪すぎる現実が数限りなくあるのである。

これは老人ホームに入ったあとでもいろいろな場で感じたが、行政や福祉の世界では「家族や身近な人に世話をさせるよう、教育指導しなければならない」という、何をすっとぼけとんじゃおまえらはという、思いあがった発想が基本にある。すごい専門家の人でもえらそうにそれを言うし、けっこうな金を取っていてさえも平気でそういう態度を取る。
その結果、どうなるかわかりますか? 家族はますます近づかなくなる。孤独にしたくなくっても、孤独にしておく方がちゃんと面倒見てもらえるんですもん。
いや、そりゃ、面倒見てくれるヘルパーや職員を、これまたバカなかんちがいして奴隷や女中のように扱う、くだらん家族もいるんですよきっと。だからこんなことにもなるんですよ。
そして、その根っこは一つで、身の回りの世話をすることは、ちゃんとした仕事だと言う尊敬と誇りのなさですよ。女の家事労働への評価の低さとそれは完璧にリンクするんです。ああ、腹立つ。

いやまた大きく脱線したから、もとに戻します。あとは、かけ足で行こうかな。
私が今住んでいる町の家は、ここの大学に就職したとき(その前は名古屋の大学にいた)に建て売りを買って、後でちょこちょこ建て増しし、今は最初の倍ぐらいの大きさになっている。飼った猫の一匹の名前をとって「伽羅館」と名づけている。面白半分に表札をつけたら、この字が「珈琲」に似てないこともないので、いろんな人から喫茶店とまちがわれて困った。
建て売りだし、安かったし、材木も多分外材か何かだろうが、その分気軽に使えて私はけっこう気に入っている。

五年ほど前、その伽羅館の前の小さい土地が売りに出て、ちょうど母をこちらにひきとろうと思っていたので、それ用にと、そこを買ってワンルームの小さい家を建てた。
「南生屋」を建てた大工さんが、仲間も連れて出張して来てくれて、南生屋の小型のような、がっちりしっかりした、ほれぼれするような家を作ってくれた。
母の名前の「澪」の字と、いっしょに暮らした猫や犬たちへの思いもこめて、この建物は「美尾庵」と名づけ、表札もそう書いたのをつけた。
結局、母の弱るのが早くて、田舎の家から老人ホームに直行したので(母はそこの個室も気に入って、「ここが私の城よ」と来た人に言っていたからまあよかったが)、当初の計画のように母の隠居所としては使わないまま、今では私の仕事場になっている。

母が住まなくなってからも亡くなってからも、私は田舎の二軒の家に行って片づけがてら、わずかな滞在を楽しんでいた。しかし維持費と体力を考えると、いつまでも持っているわけには行かないだろうから、どうしようかと思っていた。
ところが、ちょうどその頃に、まるでご先祖様や亡き家族たちが引き合わせてくれたように、高校時代の友人で不動産屋の社長の女性といきなりめぐりあって、彼女が売却の世話をしてくれることになった。プロの目で、いろいろと家を点検補修してくれたばかりか、数年後には彼女自身が、留客洞&ゆきうさぎ亭を買ってくれることになり、さらにその数年後には、南生屋もよい持ち主にめぐりあえて、どちらもめでたく私の手を離れた。
不動産屋の社長が、敷地の中の物置きを、私が使っていいと言ってくれているので、いずれは彼女に使用か処分かしてもらおうと、余った本をときどき私は運びこんで、ついでに旧南生屋で、お茶などいただいて来る。
ちなみに、その物置には、この地で母と暮らした最後の猫の名を取って「桃遇庵」と名をつけている。

もうひとつ、叔母が亡くなった後のマンションを私はもらっていた。
叔母の遺産を親戚で分配するとき、ホテルの会員権と、このマンションは私の物にして他の人たちには現金でわけた方が、後の処理が簡単だろうという判断だった。(遺産相続に関わった人ならすぐわかるように、私のもらえる現金はそれだけ減るし、建物も会員権も名義変更などあとの維持その他に費用がかかるから、現金よりは手がかかる。それでも、そういう手間や苦労を人とわけあう大変さを思うと、私はこっちがずっといいと考えた。それは正しかったと今でも思う。)
名義変更などでいろいろな人に助けてもらった結果、数年後にこのマンションは叔父の共同経営の病院に引き取ってもらって、ここも私の手を離れた。

実は叔父と叔母を訪問したり滞在したりするとき、私はこのマンションが、どことなくとりとめがなく殺風景な感じがして、裕福な二人なら、もっと居心地のいい家で暮らせるだろうにと、ときどきちらと思ったりしていた。
叔父が亡くなり、その数年後に叔母も亡くなって、家具もほぼ皆処分してがらんどうになったマンションで、私はスマートで軽やかなデスクセットに、色鮮やかなソファを置き、壁に明るい抽象画を飾って、いずれは手放す部屋とわかっていても、ひとときの時間と空間を楽しんだ。八犬伝に関する論文も、そこでひとつ書いた。
そういうことのすべてが、住まいへの仁義のような気がしていた。
ひとつ救われたのが、そうして暮らす中で、このマンションが床暖房と言い、がっちりした作りと言い、とても快適で暮らしやすいとわかったことである。
ああ、叔父も叔母も、ここで満足し幸福に過ごしたのだなと、よくわかって、私はとても幸せだった。

叔母の膨大な荷物や家具は、田舎と町の私の四軒の家に運びこみ、さらにその田舎の二軒分の家財道具がすべて今は、私の暮す伽羅館と美尾庵に押しこまれている。この十五年近く、よくも気も狂わずにこれだけのものを維持し処理してきたものだと、自分をほめるより先にあきれる。自分で建てた家だけで三軒。まともではない。

さて、その、ほぼ空になった叔母のマンションで、最後まで私がそのまま残していたのは、ベランダにあった花の鉢だった。
他にもたくさんの鉢があって、叔父がていねいに水をやっていたのは覚えているのだが、どうなったか思い出せない。もしかしたら、叔父が亡くなった段階で、叔母が人にやってしまったのかもしれない。
ひとつだけ残っていたのは、わりとよくある、放っておいても勝手に咲くピンクの元気な花だった。誰もいなくなったマンションのベランダで、めったに行かない私が水をやるだけでも、元気に生きのびていて、私は建物に近づいて、濃い緑の葉と明るいピンクの花の色を見るたびに、たのもしい思いがしたものだ。

いよいよ最後にひきはらう時、私はその鉢を車にのせて、自分の家に運んだ。美尾庵の玄関前において、適当に水をやって、雑草がおおったら抜いておく。それだけしかしていないのに、もう滅びたかと思っていると、いつかまたちゃんと葉をのばし、ひとつふたつと花をつけ、やがてみごとに満開になる。
それがもう、十五年近くくりかえされると、どこにでもある花なのに、何だか、原爆の火かアンネのバラのように、絶やしてはいけないもののように思えて来るから不思議だ。
まあおたがいに、あまり重くならないように、これからもつきあおうね、と思いながら、私は今日も水まきのついでに、ホースで荒っぽくざぶざぶ水をかけてやっている。(2018.9.3.)

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カツジ猫