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(66)ハイタッチ

愛するものを失ったとき、人は何となく、そのことにまつわる場所にこだわるものだ。墓参りに行くのも、思い出の場所に訪れるのもそうだろう。
以前、愛猫が猫エイズで弱っていたとき、家の中のどこで死ぬかがぼんやりと気になっていた。廊下であれベッドであれ、その場所が自分にとってずっと特別な場所になってしまうだろうと予感していた。実際には彼は夜明けに私の腕に抱かれて死に、私は彼の死に場所を訪れたり守ったりする必要がなく、自分の両腕で輪を作ればそれでいいのだと少し救われたものだった。

母の死を知ったとき、私は田舎の家にいた。十年前に母の隠居所として私が建ててやった家で、母は大工さんたちに「十年はここで暮らす」と言っていたらしい。実際には五年目の九十三歳の時に、一人暮らしは無理になって、母は車で三時間ほどかかる私の住む町に引っ越して、私の家から車で十分ほどのそこの施設に入っていた。窓にピンクのカーテンのかかった、どことなく暖かく少しのんきな雰囲気で、ヘルパーさんたちも母によくしてくれていた。その一人の男性から、「あのう、さっきお部屋に行ったら、もう息をしておられないようで」と電話があったのは、ちょうどクリスマスの夜の11時40分ごろだった。

この家は私も維持管理がきつくなってきたため、不動産屋の友人と相談して売却の準備をし、少しずつ中の物を片づけていた。年内にそれを一段落させようと私はせっせと本や雑貨を荷造りしていた。腕のいい大工さんが建てた家は、断熱効果が高くてエアコンだけでもほかほかと暖かく、年を経て飴色に変わった木の腰壁は明るい光に輝いていた。

お医者さんを呼んで確認してもらうので、というヘルパーさんに「どうぞよろしく、いろいろと本当にありがとう」と言って電話を切ったあと、私は少し考えて、川をへだてたすぐ向かいにある葬儀社に電話した。私の小学校からの同級生が経営している葬儀社で、以前会ったときに「遠くでも夜中でも遺体を車で迎えに行くことがある。おばちゃんももし何かあったら、いつでも連れに行くから」と彼が言っていたのを思い出したのだ。
私の今住んでいる、母の施設のある町で葬儀をする方が簡単なのはわかっていた。施設の関係者や私の知り合いが参列してくれるだろうし、そもそもそんなことをしなくても私一人の家族葬でひっそり見送っても、母は多分気にしないだろう。

以前、まだ母がこの家で暮らしていたとき、その葬儀社から来たチラシを二人で広げて、母が死んだらどの程度の葬式にするか検討したことがある。「三十人じゃ少なすぎるから、五十人規模のはどうだろう。あんたの知り合いは多いから、それでも足りないかもしれない」と私が言うと、母は呵々大笑して「私の知りあいなんてあんた、もうほとんど死んでるから来るような人はほとんどいないよ」と言ったものだった。それから更に十年近くたっているのだから、来る人はもっと少なくなっているだろう。第一この年末の忙しいとき、知らされた方も迷惑だろう。
そういうことも考えないではなかったが、やはり母の肉体が最後の時間をすごすのは、ここだろうなという気がした。家の窓から見える川、その向こうに広がる神社の森、土手に並ぶ古い松の木、木々の中に見える村の家々。それは母が長く見慣れて網膜に焼きつけている風景だし、死んでいようと生きていようと母とともに時代を生きた人々の住んでいる場所でもある。

電話に出た葬儀社の男性職員に事情を告げて、出発の準備をしながら待っていたら十一時五十分ころ、施設のかかりつけの先生から死亡確認の電話があった。私は片づけをしていて気づかなかったのだが、11時ごろにその先生から留守電が入っていて「血圧が下がってきていて、今夜旅立たれるかもしれない。ただ、このところずっと咳と痰で苦しそうにしておられたのは、今は治まって大変気持ちよさそうに眠っておられますから、その点はご心配ないです」と言っておられたので、すぐかけつけて下さったのだろう。
私は先生にお礼を言って、これから遺体を引き取りに向かうことを告げ、横浜の従姉に電話して、年末だし忙しいだろうから来るには及ばないと伝えた後、葬儀社の人と葬祭場の前で落ち合うよう打ち合わせて、車でそこに向かった。母の遺体をこの家に置いておくことも、いっそ葬儀もここですることも考えたが、今は私の体力を温存する方が優先だと判断したので、葬祭場に母は泊まらせることにした。

葬儀社の職員二人と、大きな黒い車で私の住む町に向かう途中、交わした話で一番驚いたのは、葬儀社を経営していた私の友人が数年前に脳梗塞で倒れて、遠い町の病院でリハビリ中であり、意識ははっきりしているものの、しゃべるのはもう無理ではないかということだった。彼は他の近所の子どもたちと毎日のように私の家に遊びに来ており、その子たちは皆そうだったが私以上に母と仲よしだった。私の心の中には、たとえ死んではいても、母と彼の久しぶりの再会は双方を喜ばせるだろうという気分があって、ほとんど、ささやかな楽しみでさえあったのだが、まったく私たちの年齢になると、誰も明日のことはわからないものだと、つくづく思った。奥さんが大変しっかりしておられて、葬儀社の経営はつつがなく行われているらしい。葬儀の席に来てくれた市会議員の息子さんは笑ってしまったぐらい昔の彼に顔も雰囲気もそっくりで、私はひそかに慰められた。母も同感だったにちがいない。

私が軽自動車でいつも走る道を、大きな黒い車はすいすいと走った。途中で職員の方の携帯が鳴り、それも今、地元の病院で誰かが亡くなったので迎えに来てほしいとの連絡で、職員の男性は、他の職員を向かわせるよう電話で指示していた。車の中で私は、通夜と葬儀の手順や時間を打ち合わせた。家族葬と最初は申しこんでいたが、家族はほとんどいないので、主として近所の知人だけになるため、一番小規模な普通の葬儀にすることに決めた。看板を出したり新聞社に知らせたりする手続きも打ち合わせたが、母の住民票を私の現住所に移しているため、新聞社でのお知らせはできないらしく、火葬場の使用も地元住民でないと三倍ぐらいの五万円になるとかのことで、もうここまで来たらすべては乗りかかった舟というもので、それでまったくかまわないと私は言った。

施設に着いて、いつものように部屋に行くと、宿直の男女二人のヘルパーさんが涙ぐんで迎えてくれて、若い女性のヘルパーさんが、私に抱きついて悲しんでくれた。母はピンクのパジャマを着て私がクリスマスイブに持ってきた、猫の模様入りの柔らかいピンクの毛布をかけて寝ていた。「着替えさせてあげなきゃと思っていたんですが、この壁にかけてあるセーターとかどうなんだろうと言ってたんですが」と男性ヘルパーが言うので、私はクリスマスプレゼントに買ったばかりの、その超高いセーターを燃やされてはかなわないと「うーん、それはまだ一度も着たことないからね。やっぱりいつも着ていたものの方が」とか言って、クローゼットから母が元気なときからよく着ていた、馬の顔のついたチェリーピンクと紺色のセーターと、以前は叔母のものだった花模様のスラックスと、その他カーディガンやソックスをいろいろ引っぱり出してまとめた。遺影の写真は、ちょうど最近、母の近影で年賀状を作っていたので、「これでどうだろう」と葬儀社の人に聞くと、「充分です」と言いながら、ちょうど施設の人が撮ってくれた、コスモスの花と母の写真が額に入って飾ってあるのを見て、「これがいいですね」と言うので、それもまとめた。この間まったく数分で、私は泣く気ははじめからなかったが、どっちみち泣く間もなかっただろう。

母の死に顔は、あれまと言いたくなるぐらい、ふだんの寝顔で元気そうだった。何だか陽気な風にも見えた。いつもしていたように額や頬にさわると、ひんやり冷たかったが、それでも死んでいる風ではなかった。なめらかな肌は、いつも私が、きめがこまかくていい艶だねとほめてやって、母がむふむふ笑っていた時のままで、自慢していた高い鼻もそのままだった。
誰もいない時に一人で死んだのだから、ミニ孤独死ということにもなるのだろうが、そんなことは昔からおたがいに、どっちの上にも起こることと覚悟していた。むしろとっさに思ったのは、よくぞベッドの上でこうやって無事に死ねたということだ。何も母が特に危険なことや悪いことをしていたわけではないけれど、何しろ私の小さいときから何かというと、武士の息子なみに死ぬ覚悟ばっかり言い聞かせてくれていた母だ。正しいことを貫けば牢屋か死刑台が待っていると、いつの間にか私が思いこむようになったのは、その影響もあるだろう。

ずっとあとになって思い出したのは、田舎の家でずっと一人暮らしをしていて、庭でこけたか病気になったか、相当具合が悪くなって意識が遠のきかけたとき、母は、「ああ、もう私もこれで死ぬんだろうから、皆にありがとうと感謝のことばを書き残そうと思ったけど、ペンや紙も見つからず、探す力ももうなくて結局そのまま寝てしまった」とか言ってたことだ。そんなになるまで誰も呼ばなかったことに、当時の私は激怒して母を叱りつけたのだが、落ちついて考えると浮かんできたのは、そんな苦しい中で一人で死ぬと思ったときに、あの人が抱いたのは、皆への感謝だけだったのかという、あきれ半分の驚きだった。
そのころから月日もたって、母も年老いたから、ひょっとしたら一人で死を迎えるとき、淋しかったか誰かや私に会いたくて呼んだかもしれないが、あの死に顔を見る限り、基本的にはやっぱりそういうことはなくて、むしろ皆に感謝の念を伝えられなくて残念だと思いながら息を引き取った可能性が高い。

その後、従姉もかけつけてくれ、年末というのに五十人ほどの地元の人も来てくれて、母が生前大好きで、葬式にはこれを流してくれればいいといつも言っていた三浦洸一のCDを流し続けて、こじんまりとだが快い葬儀は無事に終了した。馬のセーターを着て、帽子をかぶった棺の中の母は、あいかわらず満足そうで、お別れを告げる人たちは皆「元気そう」「楽しそう」「今から旅行に行くみたい」と口にした。そうやって、死が悲しいものでも恐ろしいものでも淋しいものでもなく、幸福で楽しい旅立ちと皆に思ってもらえることが、きっと母の望みだと思ったから、私はずっと、母と二人でこの葬儀をとりしきっているような気がしていた。ひとつひとつの手順がほぼ望んだ通りにすむごとに、胸の前に小さく手を上げて、私は母とそっと陽気にハイタッチした。

参列者の中には、お身体が弱っているのに、「這ってでも行く」と言って来て下さった、母や私の一家と長い友人だった方とその奥さま、よく遊びに来ていた私の小学校以来の友人たち、そして私がお顔を知らない数人の老紳士がいた。後でいただいた香典を整理していたら、その老紳士たちは、母が選挙で応援に行っていっしょに活動した、近隣の町の共産党の議員たちだった。近隣と言ってもそこそこ遠く、寒い年末の忙しいときにかけつけて、私に自己紹介さえせずに黙って帰られたその方々のお姿に、私は母が何でもないことのように話していた、その人たちとのつながりの深さと強さを思い知らされた。

あれからもう、数年になる。
猛暑の夏もどうやら過ぎて、夜がうすら寒くなったので、私はクローゼットから薄い毛布を出してタオルケットの上にかけた。猫が喜んで寝ているのを見ながら思い出したのは、これは母の亡骸を包んで火葬したのと同じ毛布だということだった。葬儀のあとしばらくして、その毛布を買った近くの店に立ち寄ったとき、同じものが一枚だけまだ残っていて、記念になるかとついまた買ってしまったのだ。火葬場で最後にふれた母のすべすべ冷たいきれいな顔と、やわらかい毛布の手ざわりを指によみがえらせつつ、母もあの世でこれを使っているのかもしれないから、おそろいだね、と何となく苦笑している。(2018.9.12.)

以下は、葬儀の会場での私のあいさつと、その後数か月して私がブログで書いた記事である。そして問題は、私の「勉強に専念したいけど、ままならない」このブログの記事と現状が、まだあまり変わっていなくて、今も私が半狂乱に近い状態で、カリカリイライラしていることである(笑…いごとじゃないよ)。

おまけその1

(母の葬儀の最後の、会葬者への私の謝辞なのですが、こうして書くと、あまりの長さに我ながら目まいと寒気が。お経より長かったんじゃないだろうか。もっとも当日は少し省いたところもあり、通夜のあいさつで言ったことも加えているのですけど、一応こんなところです。)

皆さま、年の暮れの、この忙しいときに母の葬儀においで頂き、本当にありがとうございました。
母は五年前まで、岩崎の川沿いの家で一人で暮らしていました。私が仕事で帰れなかった分、こちらの皆さまにはいろんなかたちで、大変なお世話になりました。私の知らないところで助けていただいていた方もあると思います。あらためてお礼申し上げます。

五年前、九十三歳のときに母は一人暮らしは無理ということで、宗像市の私の家に近い、ライフステイ宗像という施設に入りました。今日、そこに立派なお花もいただいていますが、映像でもごらんのように、とてもよくしていただいて、母は楽しく過ごしていました。特に歌をよく歌って、歌詞をすべて覚えているとヘルパーの人たちは感心していました。
母は昔から三浦洸一の歌が大好きで、葬式の時には流してくれといつも言っていたので、葬儀社の方にお願いして、先ほどからその歌をお聞きいただいています。

ずっと元気にしていたのですが、半月ほど前から風邪をひいて気管支を悪くし、もともと肺が弱かったので、咳と痰で苦しそうにしていました。私が昨日こちらに帰って来て家の片づけをしていたら、施設のお医者さんから電話があって、血圧が下がって今夜旅立たれるかもしれないが、咳はおさまってとても気分よさそうに眠っておられるので、それは安心して下さいと連絡があり、まもなく亡くなったと知らせがありました。私が最後に会った時も、咳はおさまっていたので、最期は安らかに眠ったままだったのだろうと思います。

母はあきらめのいい人で、帰りたいとは言ったことがなく、今の生活に満足していましたが、宇佐のことはいつも気にかけていて、私がこちらに帰るたびに、皆は元気ね、宇佐は変わりはないねと聞いていました。年末の忙しい時、こちらで葬儀をすれば皆さんにご迷惑をかけるとは思いましたが、やはりここで最後の時間を過ごすのが母は幸せだろうと、葬儀社の方といっしょにゆうべ迎えに行って、連れて来ました。こうやって皆さまにおいでいただき、お盆のたびにお話をしていた、萬徳寺のご住職にお経をあげていただいて、母はきっととても満足していると思います。

母は中国で生まれ育ちました。祖父が大きな病院をしていて、現地ではぜいたくな暮らしをしていたそうです。その後、南京事件の時に中国兵に攻め込まれ、日本人は街の建物に集められ、廊下に並べられて銃で撃たれました。威嚇射撃で死者は出なかったけれど、当時小学生だった母は「あの時以来、私は何かを恐いと思うことはまったくなくなった」と、よく言っていました。

それでも母は、ずっと中国も中国人も好きでした。「地平線が見えない風景はものたりない」といつも言っていたし、最近テレビなどで中国人の悪口が言われると、ヘルパーさんたちに「中国の人は皆いい人よ」とくりかえしていたそうです。
その事件の後、着の身着のままで家族は船で日本に引き揚げ、いろいろ苦労をしたのちに、この村で祖父が病院を開き、ずっとそこで暮らしました。母は長崎の活水短大に行き、すべて先生は外国人という中で、キリスト教や英語の文化に親しみました。

そんな母でも戦時中は軍国少女で、アメリカ兵が落下傘で降りて来たら竹槍で突き殺すと真剣に考えていたそうです。戦後、母は、戦争はそのように人を変えてしまう、平和は絶対に守らなければならないと、いつも言っていました。また長崎の原爆で、親族の多くや下宿していた家のご夫婦も死んだので、原爆記念日には原爆資料館に行って、「ここが私の原点だ」と言っていました。

戦争が起こるときは、本当にあっという間に世の中ががらっと変わって一気にそうなってしまう、今もそうなりかけているようで心配だと言って、平和のための運動に熱心に取り組んでいました。同じように平和を願う人々が時に意見のちがいから対立するのを「まじめな人たちだから、そうなるのだけど」と、よく私に向かって残念がっていました。

母はまた、祖父の病院の事務を手伝うかたわら、家で子どもたちに英語を教えたり、ゲートボールや川柳や老人クラブの活動や編み物のパートなどで、たくさんのお友だちと楽しく過ごしていました。
恐いものがなくなったと言うことばどおり、母が何かを恐がったのを私は見たことがありません。泣いたのも見たことがありません。ため息をついたのも見たことがありません。

母はいつも怒っているか笑っているかでした。怒っているのは大抵、強い人や上に立つ人に対してでした。「けんかをしたら、強い方が折れるべきだ」「どちらが正しいかわからないときは、とりあえず、弱い方、負けそうな方に味方する」というのがモットーでした。笑う方でも、いたずらが好きで、ゲートボールの友だちのおじいさんが夕方、家に来るころを見計らって、脅かそうとシーツをかぶって木の下に立っていたりしていました。そのおじいさんももう亡くなっておられるので、母はまたあの世でいたずらを計画しているでしょう。

母がいなくなって淋しいでしょうと皆さまが言って下さいます。けれど通夜のときにも申し上げたのですが、私には、母が不自由になっていた身体をはなれて、今とても自由にのびのびと、私や皆さまの回りを飛び回っているように思えてなりません。私を守ってくれていると言いたいところですが、母はいつも身内をあとまわしにして、遠くの人や見知らぬ人を助けようとする人でした。少なくとも私よりはずっと皆さまの近くに母は行っていると思います。特に皆さまの困ったときや大変なときは、きっとそばで何とかしようとしてくれているはずと思います。

母が長いこと暮らし、皆さまがよく訪れて下さった、川沿いの二軒の家ももう人手に渡ります。新しく住まれる方もどうぞ母同様に迎え入れていただきたいと思っています。今日おいでになれなかった方がお参りしていただく仏壇もここにはないので、残念に思われる方もいらっしゃるかもしれません。お墓はご存じの山の上の墓地にあって、四十九日には納骨する予定ですので、そこに行って下さってもよいのですが、山の上まで行くのは皆さまも大変だと思います。ですから、そこまで行かなくても、どうぞ、今おられるところで、平和な暮らしを続け、幸福で、お元気で、長生きをして下されば、それがもう母への何よりの供養です。母が犬や猫を連れて歩いていた、このあたりの道、ビラ配りや署名集め、また川柳やゲートボールのために歩き回った、この村のすべての場所が、母の墓と同じ、思い出の土地です。そこで皆さまが幸せでいて下さることを何よりも母は喜ぶはずです。

参列して下さっている方の一人が、以前、母のことを小説に書いて、その中で母の川柳を使って下さったことがあります。
「日めくりや今日の幸(さち)捨て明日の夢」という句です。母は年をとってもいつも今にこだわらず、未来に顔を向けていました。
葬儀社の方が、母のよく着ていたセーターや帽子を母に着せて下さって、母は今、棺の中で、その句の通り、さあこれからやるぞ、行くぞというような、楽しげな顔をしています。どうか最後に見てやって下さい。本日は本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

おまけその2

(葬儀から数か月後のブログの記事より)

◇前進するためには、ふりかえらなくてはならない。
というわけで、母の死後、今日までに自分が何をして来たか、来なかったかを、整理しておきたい。

いろんな意味で母が亡くなったことは私の生活を大きく変えることだった。自分の今後について、急いで充分に考えてみなければならない出来事だった。
だが、私は最近まで、それを先延ばしにし続けていた。
何となく、何かのミステリで、夫を亡くした妻がアドバイスされて守っていたのは、「当面はなるべくこれまでの生活を変えないようにする」ということだったのも、ちらっと頭にあった。生活の根本がゆらいだ時、自分から大きな変革はするものではなく、これまでの日常を続けることが、無駄なエネルギーを省くという判断があった。

母が死んで、当面私がめざしたのは、母を愛し母に関わった人たちを、誰も悲しませないようにしなければいけないということだった。自分の不用意さや不注意で、その人たちを淋しい気持ちにさせてはならないし、母の思い出をつらいものに少しでもしてはいけないと思った。
それは、後になってももうやり直しがきかない、この時点だけの勝負であるから、そこは手が抜けないと考えて、そのことにだけ当面は集中した。今もそれは続いている。葬式、香典返し、お礼の手紙、形見分け、皆一瞬の油断もできない、失敗が許されないイベントだった。

◇それ以外に、母の死後、ゆっくり今後のことを考えられなかったのは、主に三つのイベントのせいだ。
まず、葬儀の半月後に私は人間ドックの予定を入れていた。1年前から決まっていた予定で、変更の理由も特になかった。しかし、母の死後、自分はとにかく生きて、生きのびるということが以後の生活設計や計画を立てる大前提であると思えば、まずその保障をもらうのに、これは一つの関門だった。

もし身体のどこかに異常が見つかれば、今後の計画には大きく影響する。だから、人間ドックが終わるまでは、何も決められなかったし、また、あまりひどい結果を出さないためには、その時までは体調管理にも気をつかわなくてはならなかった。私は1月なかばまで、そういう点では宙ぶらりんで、第二の人生に取り組むスタートラインに立てなかった。だから、その時期、なるべく自分を甘やかし、普通の日常を送るようにつとめた。

◇ドックの結果は、いろいろ問題はあったが、おおむね去年と同様で、大きな問題点はなく、この点はまずクリアした。その次に、もう母の四十九日と納骨が迫っていた。
私は母の死んだときから、悲しくも淋しくもなく、母といっしょにいる気分で充実していたのだが、こんなことがいつまで続くかわからないと思っていたし、はりつめているような気分は全然ないけれど、何かのはずみに、どっと崩れて大泣きするか茫然自失するかになる可能性はあると考えていた。それでも別にいいとは思っていたが、そのために何か大きな失敗をしてはまずいと用心していた。

母の遺骨は骨壺を入れた箱ごと、家の隅のこたつの上において、毎日花や水や仏飯を供えていた。母の好きな三浦洸一の歌も毎朝かけてやった。猫にエサをやったり神棚に水を上げたりするのと並行して、毎日そんなことをしていると、それは楽しくて、まるで母と暮らしているようで、ごく自然に私は、いつまでもこの生活が続くといいなあと思いはじめていた。そして、母の骨を田舎の墓地に納めるのが、あまり気が進まなかった。

それは、病院に毎晩行って、母に触れて母と話して、そんな日々がいつまでも続くものではないし、続いたら経済的にもその他の面でも大変だとはわかっていて、それでも、いつまでもこのままならいいなあとぼんやり感じていたのに似ていた。そして明らかに、無神論者で唯物論者であってもなくても、私は母の納骨で、母をもう一度失い、もう一度別れることになると強く感じていた。

◇それでも、そんな感傷は無視するしかないとわかっていたし、四十九日も納骨も予定を変えるつもりはなかった。ただ、それは、やはり何かを身体からひきはがされるような淡い苦痛を生みそうだったし、その前後、自分の気持ちは不安定だし、何かをひきはがされた肌を一人で静かになめていたわるような気分で、田舎の家でひと晩を過ごしたかった。その時に泣けても泣けなくても、自分の心に何が起こっても、そこでもう一度、今度は他の誰を気づかうのでもなく、自分自身をいたわりたかった。

だから、その前後数日だけは、かなり無理をして予定を空白にした。自分の無防備で傷ついた心をいたわって、次のステップに進むために。
しかし、その時に沖ノ島関係の会議に出てくれという連絡が入った。私は予定があるからと断ったが、何とか都合をつけてほしいと頼まれた。どうしても無理だと言うと、あきらめてもらえたが、もう、それで私の心は乱されて、落ちついて母を送り出し別れを告げる心境にはなれなかった。

◇これは私の責任である。ゆくりなくも思い出したのは、母を深く愛して幼いときから一心同体といっていいほどだった私の、母への愛が決定的にさめたのは、これと似たことが原因だったということだった。
私はまだ30代だった。私が大学院生のころ、飼い始めた私にとって最初の飼い猫は、年とって手術をくり返し、次第に弱って死にかけていた。今日か明日かというその日に、田舎の母が私に電話をかけて来て、何かのことで相談があるから帰って来いと言った。

思えば母も、あのころから次第に弱ってきて、私を頼りにしはじめる、ちょうど最初の時期だったのだ。それまでは私などいなくても何でも一人で決めて、実行していた。それが次第に私に自分の補佐をさせようとする、あれが最初の兆候だったかもしれない。
だから私も対応に慣れてなかった。それと、私の多分死ぬまで治らない、決定的な傾向だ。時間であれ、ものであれ、それを誰かがどこかで要求し期待していると思ったとたん、もうその時間もものも他の何でも、私は汚されたと感じる。心おきなく安心して、自分がそれに集中できないのだったら、それは私にはないも同じだ。

私は周囲にも他人にも、献身的になるし、あきらめよく自分を捨てる。しかし、その分、「これまでは、ここだけは、自分のもの」と確保した範囲には、絶対に手をつけてほしくないどころか、目を向けられるのさえ我慢できない。
その時も、そうだった。もちろん母には、今帰れないと断った。でも猫が死にそうだからと言えなかった。母が猫なんかどうでもいいとか、ひどいことを言ったら、もう二度と母を許せないと思ったのもある。揺れ続ける心を、自分以外の人にさわられたくなかったこともある。

理由を言わないから、母も不満そうだった。何とかなだめてごまかして電話を切ったあと、私は結局田舎に帰ることに決めた。何よりも決定的だったのは、このままだと私は、猫が早く死ぬことを心のどこかで、かすかにでも願ってしまうのではないかということだった。願わないまでも、いつ死ぬのか、いつまでもつのか、いつ母のところに帰れるのかと、頭のどこかでちらとでも計算してしまうのではないかということが、それが何より恐かった。それよりは、大急ぎで帰って、母の顔を見て用事をすませて引き返し、ゆっくり猫と最後のときを、誰にも、私自身の気がかりにもじゃまされず、過ごした方がいいと判断したのだ。

車を飛ばして帰ったら、母はそんなにせっぱつまった様子もなく、のんびりしていた。少し話してすぐに私は車で同じ道を引き返した。それから何年も何年も同じ道を往復するたびに、苦しみと悲しみがよみがえることになる長い道だ。家に帰って部屋に飛びこむと、猫は身体をよじるように部屋のまん中に倒れ、かっと目をむいて息絶えていた。生まれて最初に飼った私だけの飼い猫、誇り高く美しいしっかり者のおゆきさん。

◇抱きあげるとまだ身体は暖かく、たらたらと熱い尿が流れ出て私を濡らした。今思えば、死んで本当にすぐだったのだろう。
母のことも誰のことも私は恨みはしなかった。そんな感情で、おゆきさんの思い出やその死を汚すことは絶対にしたくなかったからだ。

ただ、それ以後、自分でも不思議なほどに、私の母への愛はさめた。二度とよみがえることはなかった。まるで、激しい恨みや憎しみを消したときに、他の感情もすべてなくなってしまったようだった。
それでよかったのだと、今は思う。あのまま、子どもの時のままの母への愛を失わずにいたら、母の死で私は立ち直れなかったろう。母とおゆきさんの連携プレーで、私は親離れができたのかもしれない。

◇そして、その時と同じように、母の遺骨を納めたあと、私は田舎の家にとどまることなく、とって返して、沖ノ島関係の会議に出た。それなりの発言をし、自分のするべき仕事をした。私にはわかっていた。あの時、猫に最後までつきそってやれなかったことで、母への愛が消えたように、今度また母と最後の別れを惜しめなかったことで、私の中の何かが消えると。それがわかっていても、私はそうしてしまうのだと。我ながら本当に、救いようのない性格だと。

◇人間ドック、四十九日&納骨に続く三番目のイベントは、二月締め切りの論文だった。大学の研究会が出している雑誌で、もちろん書いても書かなくてもいいのだが、やはり書いておきたかった。それは、母とゆっくり最後の別れを惜しめなくて、中途半端の宙ぶらりんで混乱している自分を落ちつかせるためにも必要だと判断した。

だがやはり、いろいろ忙しい中で、当初予定していた東京への資料調査に行く時間はついに取れなかった。これはある程度覚悟していたので、論文ではなく研究ノートというかたちのエッセイに切り替えた。しかしやってみると、型にはまった論文とはまた別の難しさがあって、表現や構成に頭を悩ませ神経を使うこととなった。何よりも、論文を書くときの、これでもう資料は完全にそろって、何を聞かれても大丈夫だし、書くことならいくらでもあるし、どこからでも攻めてきなさいという安心感がないままに書いているのが、一番こたえた。

前にも書いたが、それは九条の会のチラシや、その他の市民運動、平和運動の資料を作るときの、忸怩たる気分と共通していた。このブログがコメント可能にしていた時期に、ときどきネトウヨらしき人が、まったく根も葉もない嘘の情報を(「オスプレイは落ちたことないよ!」といったたぐいの)門前のうんこみたいに書き散らして行くのは問題外としても、自分が専門でもなく徹底的な調査もしていないことを、人の資料を信じて、いわゆる「孫引き」の推測で書くのは、やむを得ないとわかっていても、ものすごく不快で疲れる。そういうことをしたくないから論文を書きたかったのだが、その欲求は完全には満たされないままだった。

それでも新たに自分なりの発見はあった。これは私しか書けないだろうということもあった。しかし結局、母の納骨の時と同じように、私の気分は中途半端で、満足と欲求不満と自己嫌悪とが入り乱れた。その、自分でも最低なのかそうでもないのかわからない、ただ疲れ切って傷ついて、疲労のために半ば盲目になったような状態のときに、また打ち合わせをしたいからと会議への呼び出しがかかった。

私は例によって、「二月いっぱいだけは休ませて下さい」という連絡はしつこく皆に言っていたのだが、まあそれが徹底していなかったのも、組織が大きく複雑になる中で、私が必要になる局面が出てくるのも、ある意味しかたのないことで誰も責められない。会議は三月初めの予定で、私が出席できる日を調整したいという事情もあった。だが、これまた、三月初めには私の方でかなり神経を使う、のっぴきならない行事が入っており、その準備のためにも、会議への参加は無理だった。それでも何とか都合をつけることにして、予定を入れたら、その直後私は目まいがして倒れた。

◇そもそも三つのイベントと書いたが、考えてみるともう一つあって(笑)、母の死の前後から私は田舎の家を人に貸すために、徹底的に片づけて空にする大事業に取り組んでいた。母の葬儀と並行して、私はとにかく田舎の家を空にしようと、こちらの家に足の踏み場もないくらい、荷物を運びこんで、本当に田舎の家をすっからかんにして、ホテルのようにきれいにした。
そして今にいたるまで、こちらの家の山のような荷物を少しずつ寄付したり、人にあげたりして減らし続けている。
腕力と気力を限りなく使う仕事なので、食生活も乱れ、ジムにトレーニングに行く体調管理もまったくできず、体重ばかりがやたらと増えた。

母の死後、どのような老後を送るにせよ、体調管理はその基本で最優先事項とわかっていた。それさえもできてなかったことが、よくわかった。倒れても意識不明になっても、下手すれば白骨になるまで見つけてくれる人がいないということも、その時あらためて痛感した。
動けるようになって、すぐに電話をかけて会議には行けないと断ったが、母の納骨のときとちがって、まったく後ろめたさも申し訳なさも感じなかったのは、我ながら大きな進歩だ。
それ以来、私は最低限の会議への出席以外は、いっさいの社会活動はやめることにした。政治に関心を持つことさえも当面は自分に禁じた。

20年ほど前に、子宮筋腫の手術をした。何キロあったか忘れたが、けっこうな大きさの筋腫を取って、腹部がぺちゃんこになって喜んでいたのに、いつの間にか、筋腫があった部分にちゃんと脂肪か何かがついて、体重も元に戻ってしまった。何かの時によくそれを思い出してしまう。
今回も、母の死によって生まれた時間的経済的余裕が、油断するとたちまち当面の必要にせまられたものから攻めこまれて、占拠されそうな気配を感じた。空白になった部分をどう使うかを決めるまでは、いっさいの活動を当面中止して、長期的計画的に、必要と判断したものをまず入れて行かないといけないと考えた。でないと、死ぬまで流されてしまう。

◇ちなみに三月初めの、のっぴきならない用事というのは、文化勲章をもらった大学の恩師の祝賀会でスピーチを頼まれていたことで、文化勲章なんかどうでもいいし(その先生が受賞したのを見れば、文化勲章もまあ捨てたもんじゃないな、というのが私の考えである)、その先生が私にしてくれたいろんなことへの感謝は人前で口に出すべきことでもないのだが、私なりに、めちゃくちゃ及ばずながら、その先生のなさったことやお人柄を、きちんと評価してお祝いに代えたかった。だが、そのためにも、その先生の教え子として、自分がこれからどう生きるのかは決めておきたかった。二月締め切りの論文をエッセイのようなかたちででも、とにかく書いておきたかったのは、それも書かないまま、研究者としての意識を忘れてしまったままだったら、とても、先生に立ち向かって、私の生き方をかけたあいさつはできないだろうと感じたからだ。

論文まがいのエッセイを書きあげて、呆然とし混乱し、自分の不勉強と研究への欲求をかみしめながら過ごした、その数日の内に私の気持ちは、それなりに形を整えて行った。
母のいなくなった後の余生にすることは、休むことでもないし、遊ぶことでもないし、戦うことでもない。死ぬまで私がすることは、ただ学ぶこと、研究すること、書くことだ。すべては、それが最優先で、他はあくまでも、その余技だ。そうすることでしか、結局は私は、世の中をよくすること、平和を守ることにも関われない。

恩師の祝賀会でのスピーチは、うまく行ったとは言えないかもしれないが、私なりに伝えたいことは伝えた。最後に私は、これからの人生は研究に生きると宣言し、恩師にこれからもご指導をよろしくお願いしますと言った。恩師の存在と生き方が、私をその決断に導いてくれたと思うから。私は母と父の娘であるとともに、その先生の教え子としての人生を全うしたいと思うから。

◇まあ具体的には、これから家の片づけもあるし、安倍晋三を辞任させなければならないし、猫の世話もあるし、いろいろとすることは多い。
そもそも、この体調では、いつまで生きられるかもわからない。
それでも、すべては、研究が最優先の人生にして行かなければならないと思う。それがどんなに不十分でも未完成なままに終わっても、そちらを向いて、前のめりに倒れて死にたい。

教育と、創作も、それに付随するかたちで追求する。他のことについても、結局、どれだけの時間をそれに割けるかという問題と、ずっと向き合うことになるだろう。
九条の会でも、オール宗像市民連合の初期でも、私は結局「できる時にできることしかしない」自分のわがままな活動を貫いて来た。その結果、さまざまな人が新しいメンバーとして加わってくれ、運動の層は厚く豊かになっている。私が全力をかけて捨て石になって倒れて死ぬより、明らかに、その方が効率はいい。

人生の基本が決まり、譲れない範囲が確定できれば、それなりの協力はできる。時には精力的な献身も可能になる。
だからこそ、自分の守るべきものは、はっきり見据えておかなくてはならない。
母とも、叔母とも、私はそうして戦って来た。だからこそ、後悔はない。

◇折から「シールズ」の若者たちが「未来のための公共」という新しい組織を立ち上げ、再び国会前に集まっている。
私は彼らが、自分たちの人生や勉強の模索のために、いったん解散したことを、誰よりも評価した一人だ。
一見、熱気にあふれているかのような牛田君が、あの最高潮の国会前の占拠のとき、突入を抑えて、座りこみを訴えたのに、私は彼らのはかりしれない未来と底力を見た。「かまやん」さんのツイッターが今でもそれを冒頭に掲げているのは、私といくぶんか同じ感想からだろう。

https://twitter.com/kama_yam?lang=ja

おそらく彼らは、その存在とあり方そのものによって、共産党も動かして、今日の柔軟でしたたかな姿に生まれ変わるのに大きく貢献している。

献身ではなく、自分が倒れて他者に未来を託すのではなく、自らの生活を守って、皆が、誰もが、自分の割けるものを出し合うことで、大きな力を束ねるという戦い方。各自が「できることだけをすればいい」ということを基本にした運動。
私もそれをめざそうと思う。
あわただしく走りながら考えた、これまでの整理と今後の方針だが、多分、まちがってはいない。(2017.3.18.)

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カツジ猫