(67)その後の金魚
先日、金魚のタオルケットのことを書いた。器に浮かべて庭においていたら、厳寒の日に氷がはりつめて砕けてしまった、二匹の陶器の金魚のことも書いた。
それを書いている間にふらふらと魔がさして、氷で砕けたと同じ、浮き玉の金魚をネットで注文してしまった。それも何と十二匹!
猛暑はまだ続いていたが、もう夏も終わりがけだからか、そもそもネットでも浮かべる金魚は売ってなかった。ようやく見つけた、かわいいかたちの金魚は、私がなくしたものと少しちがって、色も渋くて何種類かあって、写真でもとても気に入ったので、ついつい直接、お店に電話してしまった。そうしたら、感じのよいご主人が、残念かつ気の毒そうに、もうなくなったと言われ、来年の夏の早い時期だったらあるかもしれないともことだった。
それで調子に乗ってしまって、今度は、箱詰め一ダースのセットで売ってあるのを、一個は三百円程度だが、まとまればけっこうな値段になるし、だいたいそんなに大量の金魚を買ってどうするのだ(それを言うなら、売ってどうするのだ、誰を対象にしてるのだと思わないでもない)という商品を、とうとう注文してしまった。
ものすごく大きな箱が届いたので、びびったが、厳重に幾重にも梱包してあったからで、中身は小さい箱だった。入っていた金魚も、前に持っていたのとそっくりで、多分同じ色とかたちで、そしてあらためて手に持つと、水に浮くだけあって、陶器ながらいかにも軽くて繊細で、これを氷で圧死させてしまったのかと、自分の罪深さに、あらためて、ちょっと落ちこんだ。
とはいえ、前の容器に二匹を入れて玄関に浮かべて満足したものの、さて、残った十匹をどうするか。
こんなもの、好き好きだから、もらって喜ぶ人がそうそういるとは思えない。
行きつけのおしゃれな雑貨の店にしても、このひなびて、どこか泥臭い金魚は、多分雰囲気がちがうし、レイアウトしても似合わない。
つまり、けっこう置き場所を選ぶものではあるのだった(あらためて思うが、ダースで売るって、どういう客を想定してるんだろう?)。
叔母が遺した大きな木の葉のかたちの花器を、適当に物入れにして飾っていたのに、水を張って数匹を浮かせた。机の上において、猫が水飲み場にしてもいいなと思っていたのだが、なぜか見向きもしなかった。ちなみに彼は、昔叔母がくれたクリスタルのフラワーベースで水を飲む。趣味に合わなかったのかもしれない(笑)。
あとは、昔田舎で使っていた、それこそ普通なら捨てるだろう古びた鍋に入れて、玄関においてみた。ちょっとおいてみただけなのだが、これが妙によかったので、それならと、取っ手が錆びた、古いバケツにまた数匹を入れて、これは玄関の外においた。それもまた悪くなく、金魚はこういう地味な場所を、ぱあっと明るく楽しく面白くするものだなと、よくわかった。昔の猫の食器にしていた古い器、使わないで庭のすみに転がっていた植木鉢のカバー、どれにいれても、どこにおいても絵になるのは、この金魚が単純な色と形だからでもあるだろう。
さらにしばらくして、博多駅の東急ハンズで、タイルの小さいのを、ばらで安売りしていた。もしかしたらいけるかもと思って、私は緑と茶色系統のものばかりよりすぐって、量り売りの袋詰めで一つかみほど買って来た。これを器に入れてみたら、これまたぐっと、なかなかいい。
十二匹の金魚は、赤がほとんどで、黒は三匹しかいない。
それを、あれこれ分配して、居住区間を考えているうち、もう何匹かいてもいいなと思いはじめたから、いやはや人間というのは恐ろしい。
それでなくても、このままでは金魚の養殖場とまちがわれそうな雰囲気なのに。
まあ、いざどうしても、ほしくなったら、来年の夏の初めに、あの、もう一軒のお店に電話してもいいか、と私は性懲りもないことを考えている。
しかしまあ、とにかくは、この十二匹を無事に越年させてからのことだろう。(2018.9.12.)