(69)牛乳石鹸、よい石鹸
私は特にくじ運がいい方ではない。たまーに何かにあたることはあるが、多分人なみ以下だと思う。
そもそも、これだけ好き勝手なことをして怠けて、わがままの限りをつくしていて、まずまずの家族や師弟や友人に恵まれ(いーや、まずまずどころではない、身に余るというほどの立派な人たちだな、どう考えても)、一応無事に生きているだけでも、とてつもない当たりくじだろうから、もうそれ以上の幸運は望んだら罰が当たるだろう。
あ、ペット運だって悪くない。これまでいっしょに暮らした猫や犬は、それぞれ立派で、私の生き方のお手本になるようなやつばかりだった。現在、よくブログに登場している、長毛ふきげんビビりで、負のオーラ満載のカツジという猫だって、足腰が弱いから高いところに飛び上がらないし、やる気もねばりもないから、ティッシュの箱でもドリームキャッチャーでも全然おもちゃにしないし、ものをこわしたり汚したりする心配をまったくしないですむ、稀有なお役立ち猫だ。「むかつくけど、飼いやすいんですよう」と私が目を細めるので、皆とまどっている。
「そういうのは仁徳ですよ」とか「努力はちゃんとしてるはずですよ」と言って下さる人もいて、ありがたいけど、実感としてそう思えないから、どうも落ちつかない。
そうかと言って、ときどき、「あなたはご家族に恵まれてるから」とか、「大学の先生だから」とか、理屈づけられても、これまたひっかかる。特に、こういうことを言う人の中には、明らかに「私だって、その条件があれば、あなたぐらいか、それ以上にはなれた」「あなたと私の能力には、見たところ何も差はないのに、これだけそちらが好条件の暮らしをしているのは、おかしい」という思いがこもっていることがあって、数年後にそれに気がついて、うんざりしたりすることがある。
さらに少々問題なのは、「あなたが社会的に恵まれている分を、恵まれていないこの私に還元して下さい」という要求をして来る人がままいることだ。
率直に言って、私は性差別であれ人種差別であれ、その他の何であれ、被害者である人が加害者の中のある個人をめがけて、名ざして、標的にして、「あんたはトラの眷属だから、ウサギの私に罪滅ぼしのためにつくしなさい」という態度や発言をしたとたんに、どんな弱者でも被害者でも、弱者とも被害者とも認めない。
あるグループに属していたことを理由に苦しめられた怒りは、その苦しめた相手もしくは、相手の属するグループに向けるべきで、相手のグループの一人を罪悪感や責任感で自分の奴隷にしようとする根性なんぞ、どんな同情にも値するものか。
そんな人たちに、本当かどうかわからないが、とりあえず魔除けと忌避剤をかねて、私が今そこそこ「恵まれて」いる理由を言っておくなら、それは、拒否と拒絶をやってのける能力だろう。時には断固として、時には巧妙に、私は自分が望まないもの、気に入らないものを遠ざける。
いくら強要されても、世間の評価が高くても、自分が受け入れたくなかったり魅力を感じなかったりしたら、絶対に近づけない。憎んだり、嫌ったり、攻撃したりといった関わりさえも持たないほどに遠ざける。
幼い時からそうだった。大抵のことは周囲にされるままだったが、どこかで、これはいらない、ほしくないというものは、とことん避けた。避けていると、相手や周囲や、ひょっとしたら私自身も気づかないぐらい、それとなく、徹底的に受け入れなかった。
マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人だっけ先王の愛人に口をきかないで無視して、問題になり、周囲からの圧力で、いやいやついに「ベルサイユはいいお天気ですね」とか何とか一言声をかけたと言うが、私ならそんな時間の無駄はしない。気にくわなかったら、そんな「口をきかない」特権を相手に与えたりなんかせず、しゃっしゃかしゃべって、声かけて、一歩離れたとたんに忘れる。パーティーにも招くし、悪口も言わない。それが私の拒否で拒絶で、だから多分実害は、その相手にはほとんどまったくない。
ただ私には、その人は、まったくどうでもいい人である。そういう人や物事を、惜しみなく遠ざけて拒否するという点が、おそらく私が今の時点で、まあまあの安らかな毎日を過ごしていられる原因だろう。そのくらいしか、思いつけない。
いやーまた、どんどん話が延びまくるなあ。
まあそんな風だから(どんな風だよ)、私は何かに当たったことは一向に思い出せなくて、一番はっきり覚えているのは、大学院生のときのことである。私は福岡の名島のアパートにいて、今では信じられないが、そのころは携帯電話はもちろんのこと、固定電話も学生は持っていなくて、私は人から受けるときは、隣りの大家さんの家にかけてもらって、呼び出してもらい、自分がかける時は更に数軒離れた酒屋さんの店先にある公衆電話を使っていた。
これまた信じられないかもしれないが、その当時の公衆電話はどんなに長いことかけても十円だった。何でそれを覚えているかというと、大学が学園紛争でバリケード封鎖されていたとき、バリケード派でなかった私は、同じ立場の知人とその電話で情報交換と情勢分析をしていたら当然ながら長くなり、店の主人に、かけている間にやかましく怒られた。「あんたみたいな人がいるから、電話代を時間で上げようという話が出てくるんだ」と、主人がどなっていたのをよく覚えている。
平謝りに謝って退散したが、そう考えると、私の記憶は怪しくなる。というのは、私が今でも思い出す、生涯最大の大当たりは、その店で引いた町内会の大売出しのくじ引きで当たった、石鹸の大箱だったのだが、その電話の件のほとぼりがさめた後だったか、それ以前の、ひょっとしたら学生時代だったのか、もちろんまったく思い出せない。そうこうしている内に、果してあの店だったろうか、近くの別の店だったのではとまで、疑いたくなってくる。
とにかく、それはかなり大きい石鹸の詰め合わせで、これも今とちがって、お洒落な化粧石鹸などではなく、おなじみの牛乳石鹸の赤箱が、ひたすらぎっしり詰まっていた。
私はもちろん、とてもうれしく、なかなか使えずそのままに持っていた。そうこうする内、これまた叔母がお歳暮やお中元で山ほどもらう、きれいな高価な石鹸を次々どさどさくれるものだから、それを消化するだけでもせいいっぱいで、牛乳石鹸の大箱は、ずっとそのまま、しまいこまれていた。
そもそも、叔母がくれる石鹸も使っても使っても使いきれず、ずいぶんいろんな人にもあげたし、最近ではご夫君がお風呂好きで石鹸はいくらでも使うという従姉に、大喜びで山ほど押しつけたりもしたが、今でも衣装ケースや戸棚の奥から、いい匂いがすると思ったら、宝石のような美しい赤や紫の石鹸がいくつも転がり出してくる。
その間、それなりに、当たりくじの牛乳石鹸も使ってはいたのだが、私ひとりの暮らしでは、何しろそんなに減るものではなく、先日とことん家をひっくり返して、石鹸を集めたら、おなじみの赤箱が二十個以上も出て来た。
牛乳石鹸の本舗の名誉のために保証書でも書こうかと思うほどだが、かれこれまさに五十年たっているのに、品質にはまったく何の変化もない。だからこそ安心して、なかなか使わないでしまったということもある。
さすがに箱のいくつかは劣化し、石鹸を包んだ紙も茶色になり、中には石鹸本体もぶつぶつ表面が荒れているのもあるが、使ってみたらちゃんと使える。
そうやって、使えることを確かめもしたことだし、いよいよこれも、ワールドギフトといういろんなものを活用してくれる団体に寄付しようかと、いったん籠にいれて、玄関に置いた。
白状すると、その後で、紙袋に入れて、小包のダンボールに詰めた。
でも、その写真を見ているうちに、やはりここまで来たら、最後の一個まで私が使い切ることに挑戦しても面白いのではないかと、思いはじめてしまった。
考えて見ると、私はその電話もなかった名島のアパートから、熊本の大学に就職し、さらに二年後には名古屋の大学に移り、その数年後に今の福岡の赤間に来て、定年までそこの大学に勤務した。
その間、名古屋では三度、赤間では二度、引っ越しもしている。
初代猫のおゆきさんを連れて、名島から熊本、名古屋、赤間と転々としたことはよく覚えている。すべての家で私のそばには、いつもおゆきさんがいた。
彼女がこの赤間の家で死んで後、この家にはたくさんの猫たちが住んでは死んだ。今はカツジと、灰色猫のグレイス、白黒猫のマキがいる。
で、そういうことはよく覚えているのだけれど、その間、この赤い牛乳石鹸の箱がどこにどうして保管されていたかの記憶は一切ない。
しかし、ここに今こうして、これだけの赤箱が残っている以上、それらすべての家の中に、移動した荷物の中に、ずっとこれは入っていて、私が論文や人事や学内政治や人間関係にじたばたする間もどこかにあったはずなのである。
何だかすごいことのような気がする。全然すごくも何ともないけど。
なかなかの数だから、がんばって使っても下手したら死ぬまでに使いきれないかもしれない。
そしてその間、きれいな新しい石鹸を、私は使えないまま、ひょっとしたら死ぬかもしれない。
いろいろ、まことに、アホらしい。
でもちょっとやれるかどうか、試してみたいではないか。
こんなのが、老後の人生の目標のひとつだなんて、どう考えても、しょうもなさすぎるんだけど。
というわけで、今この石鹸は、かごに入ったままのかたちで、洗面所の隅においてある。
私の家にはよくあることだが、変なオブジェのようで、そう悪くはない。(2018・9.18.)