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(74)どんと来い。

(精米・ポリバケツ・米びつ)

玄米をもらう

友人や知人から、ときどき玄米をいただくことがある。必要な分だけ自分で精米すればいいので、いつまでもおいしく食べられるからありがたい。
何年も前に、初めてもらったときは、どこでどうして精米したらいいのかわからず、とまどった。それまで何の興味もなく目の端で見流していた、小さいコイン精米所があちこちにあるのに、やっと気づいて、家の近くのその一つに行ってみた。なぜか周囲は草ぼうぼうだし、水たまりはあるし、稼働してるのかどうかもよくわからない電話ボックスのような建物の中に、小さな電気がついているだけだった。靴を水でぬらしながら、やっと入って、何もかも初めてのおっかなびっくりで何とか精米をすませたものの、最後に完成した白米が流れ出す口において受けとめるものを用意していなくてあわてた。玄米を入れてきた小さなホーローバケツをあてがって、無事に回収できたが、その時にぶつけたのか、大事にしていた花模様のホーローバケツに小さな傷がついてしまって、がっかりした。

それでもあった内はまだよくて、それから間もなくそのコイン精米所はこわされてなくなり、きれいな大きいコインランドリーが建ってしまった。精米難民と化した私は、あんなものどこかにあるだろうと、たかをくくって、ろくに探しもしなかったせいで、次に米がなくなった時には、玄米を車に積んで一時間ほど市内をぐるぐるドライブするはめになった。
幸い、何とか数軒のコイン精米所を新しく見つけて、何度かやっている内操作にもなれて、やれやれと思っていたが、受け皿にする入れ物はやはりいいものが見つからなかった。袋などを持って行ってもいまひとつこぼさないか不安である。
実際、あたりの床の上には、けっこうばらばら白い米が散らばって落ちていた。「七人の侍」で、左卜伝のトロい百姓が、べそをかきながら床の米を一粒一粒拾う場面が目に焼きついていたりすると、そんなのも全部拾って帰りたかった。せっかく収穫されて、ここまで来て脱落するのはあまりにも無念だろうと、また私の癖である、変な擬人化までが心をよぎるのである。

高齢猫の住まい

十八歳になって今年は市から高齢動物として表彰されることになっている、わが家の二匹の牝猫は、私の住む二軒の家の、古い方の物置きと、それに隣接した部屋で暮らしている。
長い間に、その猫部屋エリアも次第に片づいてきて荷物も減った中、トイレの掃除に使うビニール袋をつっこんでいた紙袋やバケツも、いつの間にか壁から消えて、すっきりして来た。
物置にはいくつか窓があり、用心のために、木の格子が打ちつけてある。若くて亡くなって私や近所の人たちを嘆かせた電気屋さんがサービスで、つけてくれたものだ。
それに、幅広のフックを引っかけて、叔母の荷物の中から出て来た、白い大きなポリバケツをかけて、ティッシュやビニール袋を入れていたが、それもそろそろ不要になって来た。
つまり、引っ越しや片づけの間に、文字通り山ほどたまっていた、祖父母や母や叔母がためていたものまで含む膨大なビニール袋が、ようやくそこまでなくなって来たということだ。

きれいなものしか入れていなかったわけだし、作りはしっかりしているし、このバケツならと思って、私はそれをフックから外して台所に持って来た。米びつ代わりに使っている、イマン社製の大きめの四角いほうろうボックスから、玄米をバケツに適当な量すくいだして、精米に持って行った。
取っ手が傷まないように、私が疲れないように、もったいないけど、一回の精米の量は少ない。相当量でも百円のコイン一枚で機械はやってくれるのだが。
果して背の高い、口の広いバケツは、文句なくしっかり、まるでこのために生まれてきたように、流れ落ちる白米の滝を頼もしく受けとめてくれた。
私はすっかり気をよくして、幸福な気分で、さあこれからは、いくらでもいつでも精米できるぞ、誰でも玄米をプレゼントしてくれと胸を張ったが、考えて見ると、そんなの待っていないで、自分で玄米を買ってもいいのだよな。

ポリバケツの過去

ひとつ、精米した米を入れたバケツを車に積んで帰るとき、ほこりやごみが入りそうで心配だった。そのへんにあった風呂敷をかぶせて帰ったが、あとで、ふと、何となく買ってテーブルクロスや壁掛けにしていたのが少し古びて、でも布巾に使うのはまだちょっとと思っていた手ぬぐいの中に、ご飯模様の茶色のと、桝と白米の模様の紺色のとがあったのを思い出した。見つけてかけると、ちょうどよかった。「七人の侍」のラストの決戦の前夜に勘兵衛が言ったせりふではないが、本当に「何でも出てくる」わが家ではある。

台所に、はすかいに向かいあわせて置いた、米びつ代わりのケースと、このバケツをながめていると、そもそも叔母はこのバケツを何に使っていたのだっけと気になりはじめる。洗濯物を入れていたような気がするが、ひょっとしたらごみや掃除用具や洗剤を入れていたのかもしれない。そんな感じの大きさである。
まあそこはプラスティック製品の強みで、過去がどうあれ、今はすっきり清潔そうだからいいことにする。ちなみに私は、いろんな容器を寄付する時に、つい「猫のエサを入れていました」「ハンカチのケースにしていました」などとメモをつけてしまったりするのだが、それは叔母の荷物を再利用するのに、しばしば起こるこういう事態のせいでもある。

昔の米びつ

もうひとつ、思い出すのが、昔田舎の家にあった、大きな丸い、子どもが、いや大人でも入れそうな茶筒の化物のような米びつである。
私はまったく家事をしないで育ったので、台所にもその手前の物置きにも、長居をしたことはない。
それでも、その米びつはよく覚えている。ブリキのような金属製で、いわゆる米びつの作りだったが、何しろ大きさがはんぱなく、丸いかたちも、あれ以外今まで、どこにも見たことがない。
中にはいつも半分以上米が入っていて、灰色の石のような桝がなかば埋もれていた。
ふたを開けたり、側面にさわったりすると、べこぼこというような遠いかすかな頼もし気な響きをたてた。
あれが、いつからなくなったのか、どこに行ったのかも、まったく記憶がない。誰かにあげてしまったのだろうか。今もどこかで、米びつとして仕事にはげんでいるのだろうか。
一人暮らしになって、あのブリキの大きな米びつの十分の一ぐらいのほうろうケースとポリバケツをながめながら、あらためて思い出している。(2018.10.15.)

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カツジ猫