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(98)残り香のように

田舎の家で祖父が離れを作ったとき、その奥の一部屋を自分の書斎にし、手前の一部屋が母と私の部屋になった。二つの部屋の仕切りの板戸は新しいのに立て付けが悪くてきちんと閉まらず、真ん中に透き通ったガラスもはまっていたりして、プライバシーを守る空間というようなものではなかった。私はしばらくその部屋を母と二人で使っていて、特に不満もなかったが、中学生になったころ、なぜかもう本当に突然ある日、二階の座敷の横にある、細長い九畳の窓も何もない暗い空き部屋を、自分の部屋にすることにして、多分、母や祖父母にもそう宣言した。

皆は特に反対もせず、私の机と椅子を運び込んでくれ、村医者をしていた祖父が入院患者用に使っていた木のベッドの一つを、近所の村の人に頼んで、屋根から窓に入れて置いてくれた。私は大学に入学して家を離れるまで、その部屋で生活した。
窓がないのは、廊下を隔てた階段の上の窓から庭の樫の木の梢が見えたし、その階段の手すりの様子も古めかしくて好きだったが、部屋そのものは暗い緑の砂地の壁で、大きな古いタンスが二つ置いてあり、隣の座敷との間もふすまで隔てられているだけだったし、子供部屋と言えるようなものではなかった。ベッドも、粗末な木で作られて白いペンキが乱雑になすりつけられているだけの、治療のためかいやに脚が長くて背が高い、こんなものに寝ていたら病気も治るまいというようなものだった。多分新しく買ってくれた机と椅子も、ひとつひとつはそう悪くなかったが、机は焦げ茶色で、椅子は明るい黄土色、もしくはその逆だったかもしれないが覚えていない、ちぐはぐさで、ずっと使っていても何の愛着もわかなかった。

ちなみに、大学に入学して母に生協で買ってもらった机も、いやな肉色か肌色の金属で、しかも組み立てがうまく行ってなくてあちこち隙間があり、ガタガタ音を立てて引き出しが開くような、もう安っぽい味気ない、これまた憎むべきとしか言いようもないものだった。椅子もどうせそれと同じ安っぽいものだったのだろうが、もう覚えてもいない。自分の家の中でも世の中でも最初に独立した生活の伴侶が、そんなものだったことは、今でも私の心のどこかに、机や椅子に金を惜しまず買いこんでしまう欲求不満のトラウマを残している。実際、私は家に入りきらないような、高価で巨大な机をいくつも持っていて、この十数年の断捨離で、それを皆、知人や友人にもらっていただいたのだが、結局自分でも使いこなせた気がしない。そして、初めての部屋や、初めての一人暮らしで使う机と椅子が、もうちょっと美しい感じのいいものだったら、いくら私でも、もっと勉強し、学生運動に熱中することもなかったかもしれないと、この年になっても未練がましく、ぼんやり考える。

ただ、その当時はそんなことは考えなかった。机や椅子や、それどころか服や持ち物に好みを持つのは、ぜいたくというより、どこか品が悪いことのように私は思っていた。家族も多分そうで、それぞれ好みはあったかもしれないが、それを露骨に出して、家具や食器や日用品を選ぶというのは、恥ずかしいことのような雰囲気があった気がする。
わが家のそういう、こだわりを持たないというこだわりを作っていたのは、結局はキリスト教と武士道の奇妙な合体だったかもしれない。ぜいたくで美しいものにこだわっていた叔母を、家族はどこか下品で危険な俗物という目で見ていたところがある。アメリカに住んで、いろんな生活の美学にこだわっていた叔父についても、その生活を近くで見たら、同じ感覚を持っただろう。
アリとキリギリスのおとぎ話なんか、今の消費社会の中でどう読まれているのか知らないが、母や祖父母は確実にキリギリスを疑いの目で見て、アリの暮らしをつらぬく人たちだった。机と椅子のデザインが嫌いだから勉強する気になれないなんて、考えるだけでも卑怯者の怠け者の逃げ口上の泣き言と一蹴されることぐらい、中学生の私でもあらためて考えるまでもない常識以前の常識だった。

とは言え、もともとその家は、大金持ちのお医者さんが金にあかせて建てた上に、二階では若い者を集めて博打にふけり、階下では奥さんが青年たちと遊びまくり、警察が踏み込んだら屋根伝いに川の土手に逃げたりの豪遊をくり返したあげく破産して売りに出されたとかいう話の代物で、ふすまや長押や欄間は細工をこらして美しかった。そのお医者さんが往診のときにかぶって行った帽子の羽をネズミにかじられて激怒して、中を全部ブリキ張りにしたという押し入れは中の壁が鈍い銀色に光っていて、その柱の一本に、住み始めてまもなく私は、ふすまを閉めたら見えなくなる部分に小さいトンネルのような穴が開けてあるのに気がついた。母に教えると、多分そのお医者さんが印鑑をかくしていた場所ではないかということだった。

私は祖父母も亡くなり母も新しい家に引っ越して、一人でこの家を管理しているとき、もう机や椅子は処分し、ベッドは長すぎる脚を切ってもらって、隣の座敷に移していたが、やはりこの部屋そのものはなつかしくて、叔父や母が昔使っていた小さな本箱や、安物の小さいソファで、それなりの空間を作り、ときどき一人でくつろいでいた。これは、そんな時期の写真の数枚で、私が中学高校と暮らした部屋の雰囲気がどことなく残っている。

この部屋に住んでいたころは、部屋を飾るということ自体に何だか罪悪感のようなものがあって、どこかこわごわそろそろと、おっかなびっくりで、ものを並べたり、壁にかけたりしていた。「こんなものが好きなの」「こんなのがいいの」と訪れた人に思われることが、ひどくみっともないような気がしていたのだ。
部屋や服装を見て、もっと言うなら顔や姿かたちを見て、どんな人かとわかられることを私は今でも、どこかはしたないことのように思う。本棚の本、書く文章でさえ、私を理解する手がかりにはしてほしくないとさえ思う。私の書く小説なら、作者のことなど考えないで楽しんで酔ってほしいし、私の書く論文なら、私よりそこで述べていることに関心を抱き理解し、何かに役立ててほしい。

私が今、着る服にこだわり、髪型にこだわり、インテリアにこだわり、持ち物にこだわり、文章にこだわり、会話にこだわるのは、自分を表現するためではなく、本当の自分を隠すためだ。私の本心や本質を他人に悟らせないために、私は外見をやつし、住まいや衣装を作り飾る。そのことが楽しい。逃げて、隠れて、身をひそめて化けるのが。
ただまあ、そういうことばかりしていると、だんだん、隠して守っていたはずの本当の自分が消えてなくなってしまって、仮装と化粧がイコール自分になる傾向もないわけではない。

で、そのころ、ささやかに適当に、「別に好きでもないんだけどねー」的な感じで壁に飾っていたのが、どこかにあった古ぼけた額に入れた、人物画と静物画だ。どちらも何かから切り抜いた絵だったと思う。人物の方は多分週刊朝日の小磯良平の描いた表紙ではなかったろうか。
私は山口百恵がデビューしたときからずっと妙に好きで、桜田淳子と区別がつかないと言う母を信じられなかったし、それ以後の行動も発言も気味悪いぐらい彼女には何一つ裏切られなかったのだが、そう言えば、この絵の少女の顔は彼女に似ている。えらそうなことを言っているわりには、私の好みは誰にもバレバレなのかもしれない。

田舎の家を片づける膨大な荷物の中から出てきた、この二つの額を、私は今、二軒の家の古い方のキッチンの棚に飾っている。私の最初の部屋、最初のインテリアの名残りがそこにとどまって、多分もう誰にも語ることも書くこともないだろう、私の当時のさまざまな空想や物語をつかのま、ふわりと、あたりの空気にただよわせてくれる。(2019.10.1.)

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カツジ猫