「こぐま星座」を読む悲しみ
ぶっちゃけ私は、過去の美しい楽しい時代や、それを思い出させる場所を「聖地巡礼」する人が苦手である。いやさ、別にいいのだが、こっちがその聖地になった日にはたまらん。
いつまでも、過去がそこに行けば温存されていると幻想を抱いて訪れられるのも閉口だし、そこが荒れ果てて見る影もなくなっていたら、時の流れの残酷さをしみじみとかみしめて落ちこむのも、どーぞお好きにと言いたいものの、いー気なもんだとしか思えない。清少納言が老年になって、家をのぞきに来た若者らに「駿馬の骨を買わんかえ」とか言って脅かした気持ちが、そりゃもう死ぬほどよくわかる。(ちゃんと検証していないので、まちがいとかもひょっとしたらあるかもしれないけど、わかりやすいので、こちらでも読んでおいて下さいませ。こちらも同様。)
とか言いながら、気がつくと自分自身は、こと文学や本に関しては、まさにその「聖地巡礼」をやっていて、甘酸っぱい思い出に胸をかきむしられ、今の世界の中でそれと再会することに、果てしない苦さや苦しみを感じる。それがまた妙に楽しくて、自分は絶対マゾヒストだと確信する。いいやまあ、人とちがって、本は傷つかないだろうから。
ムサトフの「こぐま星座」は岩波少年文庫で昭和二十九年に発行されている。私が読んだのもそのころだろう。八歳ごろかな。もうちょっと上かな。第二次大戦後のソ連の小さな農村を舞台に復興にとりくむ村人たちを、少年少女を中心に描いていた。
そのころはまだ児童文学にアジアのものはとても少なく、絵本でも小説でも欧米ものになれきっていた私には、同じ時期に読んだ「揚子江の少年」や「草原の子ら」と同様、村の風物や人の生活になじみがなくて、ちょっととっつきにくかった。でもまた、そこが面白かった。私以上にこの小説に夢中になったのは母だった。しょっちゅう、いろんな感想を、まるで現実の知り合いたちのことを話すように、私と話し合っていた。
母は男の子に負けずに冒険好きで積極的な少女マーシャがお気に入りだった。私は彼女が少年たちに伍して仲間になろうとするのが、のちに「ウェストサイドストーリー」の映画で少年たちに混じりたがる男装の少女エニボディを見たときと同様の、いたましさを感じて、あまり好きではなかった。そもそもアジアの文学に慣れていなかったので、作品世界にとけこめず、よそから来た元パルチザンの少年フェージャに最も親しみを感じていたぐらいだ。
けれども母は、たとえば春になって教室から川の氷が割れるのを見ようとする描写などに夢中になっていた。また主人公サーニャの母のカチェリーナが、息子の隠していた手紙を見つけて読む場面の、あたりがぐらぐらとゆれて、暗くなって行くような描写にとても魅了されていた。(のちに映画「仮面の男」でアトスが息子の死を知らせた通知を受け取る夜の場面で、私はふと、その場面を思い出したりした。)
今も読み直すたびにあらためて思う。この小説の中に、この村の中に、登場人物とともに母がいると。村の男女にまじって、麦畑や川のほとりをあたりまえのような顔で歩いていると。
私自身は、戦地から帰還したアンドレイ先生が、片手を失っているのを見てショックを受ける、教え子の少年少女たちに、ほほえみながら、
「なんでもないよ。こんどの戦争では、腕の一本ぐらい失くしたって、そのくらい、たいしたことじゃないんだよ。」
と言ったのを読んだときの衝撃をおさなごころによく覚えている。戦争に参加して、被害者意識もなく、誇りに満ちて戦いを肯定している人に、私は初めて物語の中で会ったのだった。
自民党が日教組の自虐史観教育の話をよくするけれど、あいにく私のいた田舎では、学校でそんな反戦平和の教育を受けた記憶がまったくない。先生方はむしろ、戦争に行った体験を冒険のように楽しげに生徒に語って聞かせていた。そもそも、日本の大陸での加害者としての残虐行為が語られはじめたのは、私の記憶では本多勝一の「中国の旅」の出版以来で、それまでは、私でさえ、第二次大戦の残虐行為はヨーロッパのナチスのしたことしか知らなかったぐらいだ。
だから私が、あらゆる戦争を激しく嫌悪し憎悪し、決して許せないと感じていたのは、戦時中は軍国少女だった反省もこめて、いつも思い出を語った母と、当時のマスメディア、新聞や雑誌、週刊誌、ラジオのすべてから受けた教育だった。それは肌身にしみついていた。なぐられて、死にに行かされる兵士としてのイメージしか、すべての戦争参加者に私は持っていなかった。
アンドレイ先生のことばは、そんな私に初めての、祖国防衛戦争に身を呈した人の観点を教えた。その違和感をずっとかみしめながら、私はやがて、フランスのレジスタンスなどを含めた、戦うべき戦争があるのかもしれないということを知って行く。その道程が正しかったかどうなのかをも、今あらためて考える。
他にも、今読み直してみると、私が「情けあるおのこ」の中で注目した、ソ連の家庭菜園と集団農場の問題が、すでにはっきり描かれているのに気づいて、その具体的なさまがよくわかる。
なつかしさとともに、このようにナチスと戦って勝利し、大きな苦しみと傷を背負いながら未来に向かって生きていく、ストジャールイ村の子どもたち、大人たちのすべてが、今のロシアとウクライナの戦いを知ったら、どう思うかと考えただけで、胸が苦しくなる。耐えられない悲しみがこみあげてくる。
今、これを初めて読む人は、どう感じるのだろうか。とても、それを知りたく思う。あの村に行って、きっとそこにいる私の母や、登場人物のすべてと、あらゆることを語り明かしたい。戦争について、未来について、世界について、人間について。