「告白」感想(2)。
あ、やっぱりそうでした。松たか子さん。ドゥルシネーアっていうか、アルドンサね。もう、スペインの馬小屋か牛小屋の匂いがただよってきそうな、野性味あふれた若々しいアルドンサで、映画でも好きな「ラ・マンチャの男」だったけど(若き日のピーター・オトゥールが出てるし)、あの舞台には完全に魅了されました。
で、今回、彼女が演じた女教師ですよ。だからもう、あんな人いるわけないし、いちゃ困るんですが、でも、それ言うなら彼女の後任の熱血青年教師もそうなんですが、もう、ものすごっっっい現実のパロディで、しかもさー、こっけいで、恐いパロディなのに、現実の若い女教師や青年教師の魅力を万全に見せるんだよねー、視覚的には。
こんな曲芸、こんな冗談、いったいもう、どうやったらできるのさ。女教師というものの清楚さ、凛としたたたずまい、冷静で意志が強く理知的で、どういうかメタリックな輝きがどの場面でもあふれてる。青年教師の明るさ、前向き、生命力、若さも、まぶしいほどに輝いている。
ああいう女教師、いるんですよね。ああいう青年教師も。ちゃんとまっとうで魅力的で、生徒たちにはあこがれられ、慕われる人ですが。見ていて女教師にはうっとりしたし、青年教師には吹き出しながら、目を楽しませました。
それは、母親も、クラスの生徒たちも皆そうで、それぞれとてもリアルだし、そして魅力的なんですよ。
そんでもって語られるのは、織りなされるのは、悪魔のような地獄図絵。
あー、もう、思い出しても笑ってしまう。一口に言って、その「すごく悪い冗談」ぶりに。
この映画をどんな風に見ればいいのかなんて、知ったこっちゃありませんけど、監督がどんなつもりで作ったのかなんて、さらにもう知ったこっちゃありませんけど、でもね、多分これはね、とても生徒を愛して生徒のためにつくしてる、きっとこれからも退職まで死ぬまでそうしてつくすであろう教師が、「あー、いっぺん、やってみたかった!」と身をよじりながら喜んで見て、でももちろん決して実際にはしない、だからこそ、そうやって楽しむ映画なのではないかしらん。
貞淑な人妻や、よき父親や、優しい子どもや、友だち思いの優等生や、そんな人たちが、「あー、一度でいいからやってみたい、こういうこと!」と夢見るような、親や赤ん坊やつれあいや、自分が大事にし守っているかけがえのない存在に、思いきりひどいこと言ったりしたり、16階から投げおとしたり、ガソリンかけて火をつけたり、そういうとんでもない、現実には絶対にしないことを「くそ、いっぺんでいいから、やってみたい」とうっとり夢想するような、そういう映画。ある意味ではサド文学を読んだ時のような、爽快感とカタルシス。少なくとも私にとっちゃ、そうでした。
あらゆる意味で、あの女教師のやったこと、私はやらないけどね、大筋はもちろん、細かいことのすみずみまで、私は絶対やりません。でも、やろうと思ったらやれるしね、やったら、どんなにか楽しかろうなー、ははは。とは思う。
私に限らず、そう思って見た人がいたとして、私や、そういう人の周囲の人たちに、そのことを知っておいてもらいたいかどうかっていうと、うーん、それはとっても微妙だなー。
自分に反抗したり、ひどいことしたりする人に対して、私がいつも漠然と感じるのは、「よーまーこいつ、ここまで私を信じてるよなー」って気分なんですよね、何よりも。「人や周囲の善意や忍耐を信頼するのもいいかげんにしろよ。だいたい、何を根拠の自信なんだよ、その楽天ぶりは」って思っちゃう。
世をすね、人にあたりちらす、そういう人って、ある意味、弱みをさらけだして、防備がらあきで歩きまわっているわけですよね。見てて不安でたまらない。特に教師や親に対しちゃ、そういう人が多くって(キャラママなら、飼い主に対するネコも、と言うな、きっと)、相手の強さと優しさへの無条件の信頼があるから、わがままもやつあたりもして、それもまたいとおしいのだが、相手がいつ「いいかげんにせーよ、おんどれ」と言うかもしれない可能性って、実際、考えてないんだろうか。
まー、考えてないのがいいのかもしれないし、考える必要もないのかもしれない。だからこそ、神のようにうけとめて慈愛にみちてほほえんでいる親や教師は、この映画見て、ひそかに「うーん、やってみたいもんだ」と、ほくそえむのが、そして絶対やらないのが、この映画の正しい鑑賞なのではないだろうか。