「告白」感想(3)。
でも、ひょっとして、この映画をまともに見て怒ったり共感したりしている人もいるかもしれない。なのでもう、野暮は承知で、監督にバカにされることは覚悟で、どうせ監督も俳優もスタッフも死ぬほど承知の確信犯でやってるだろうことを、まともに批判しておこう。
この映画の正しい?見方として、私が提唱した「やらないけど、いっぺんやって見たい」風の見方というのは、サドもそうだが、筒井康隆の小説のいくつかと共通するものがある。医者が看護婦を生きながら解剖する「問題外科」なんてまさにそうだろう。あれを実際にやろうとしたら、ただのバカだが、優秀で良心的で疲れ切ったお医者さんには一種のカンフル剤になりそうな気がする。
それでその筒井康隆の「文学部只野教授」が出版されて話題になっていた時、つまりもう何十年も前のことだが、宴会の席で年上の同僚の先生に感想を聞かれて(当時はまだ私も若手教員だった)、私はよく考えもせず、とっさに「大学に対する愛がないですね」と答えた。するとその先生が妙に納得して下さった。
そういう言い方だと何かもう、しょーもないもいいとこの感想だが、私は筒井康隆の他の作品を読んでいて、どんなに残酷にいたぶっているように見えても、悲しみや愛がただよっているものが多い、というより大半がそうだと感じていた。だから「只野教授」は彼の作品の中ではむしろ異色に見えた。誰に対しても共感はもちろん、哀れみも苦笑もなく、よそよそしい冷たさと憎悪だけが目についた。作中人物の孤独や憎悪が作者と重なって感じられたことは、筒井康隆の場合あまりなかったので、それに一番当惑した。
これは余談だし、もちろんそんな小説もあっていいのだが、私はその時何となく、自分がよく知っていて愛憎ともに十分に抱ける世界でなかったら、小説の題材にはしまいと決めた気がする。ぬきさしならない複雑な整理しにくい感情もふくめて、虚心坦懐に見られないほど密接なものだけを自分は書こうと、なぜか思った。醜さも痛みも自分が直接味わったものでなければ、風刺や諧謔はほんとの意味で鋭くならず、いたずらに冷たさと毒だけが残ってしまうのではないか。それは逆にほんとの冷たさにも毒にもならないのではないか。そんなことを考えていた。
「告白」の映画が半分近く進んだとき、映像や演技の快さに酔いしれながら、私はふと、そのことを思い出していた。「文学部只野教授」を読んだときの印象と、映画の画面から受ける感触が、その時奇妙に重なったのは、どちらも大学や中学という自分のよく知っている場所だったこともあったかもしれない。そこで生き、そこで暮らしたものにとっては、あの小説と同じように、この映画にはまったく愛がなく(登場人物間の愛ではない、登場人物たちに対する作り手たちの愛である)、凍るような冷たさとよそよそしさだけがあると感じた。ここまで登場人物の一人ひとりを的確にとらえ、えぐり出すようにすべてを見抜いて寸分のすきなく描きながら、どの人物に対する一片の愛もなく、冷たいよそよそしい憎悪だけがある。その索漠とした他人事のような冷淡さに、むしろ私は慄然とした。
もちろん、誰かにかたよって安易にべたべた愛するよりは、その、誰に対しても徹底的に距離をおいて感情移入しない描き方は、むしろあっぱれとも思ったし、決して不快なだけのものではなかったが。
よくできたゲームのように、この映画にはすきがない。加害者であり悪人であり怪物であると思われていた人物が、実は愛を求めて得られぬ弱い哀れな人間にすぎないと理解したとき、女教師は一度だけ激しく動揺する。また、本来の教育者としての道に生きた教師の存在もきちんと示されている。しばしば問題になる研究者として生きた母の運命も、私はおそらく彼女自身が女教師と合意の上で選んだものであり、彼女自身の贖罪であり賭けでもあったのだろうと思った。それもふくめて、どの人物の心理も納得できるし、説明されつくされて疑問の余地がない。あらゆる問いに答えがあり、どこにも逃げられないほどにすべての道は閉ざされて結末へと観客は追いこまれる。