「大学入試物語」より(11)
最初の時期の試験では、今とちがって1科目に要する時間が恐ろしく長く2時間近いものもあった。そんな時にはこれも今では考えられないが、複数の監督官は交互に休憩して試験場を離れていた。食堂に行ってお茶をのみ、研究室に帰って本を読んでいても、とがめられることはなかった。
言っておくが私たちがずさんだったわけではない。試験官として監督業務に携わっている時間内に、そうやって休憩してもそんなに身体が楽になるものでもないし、仕事が進むわけでもない。そもそも、そんな細切れ時間をいくらもらっても研究の役にはまずほとんど立たない。
こんなシフト制がひとりでに始まって定着してきたのは、現場の実感から生まれた必要性だった。
試験時間が数時間でも1時間たらずでも、共通するのは、一番試験官が多忙で緊張するのは最初と最後の数分であるということだ。最初は問題冊子の配布、受験票の写真と本人を見比べての確認、欠席者の確認、報告書への記入、その他もろもろミスの許されない作業に追われる。最後の方は解答用紙の回収と枚数確認という重大な作業がある。受験生に余分な負担を与えず、一刻も早く解答させ、終了後は解放するためには、確実で迅速な手際が要求される。短いがこの時間帯には人手はいくらでもほしい。
だが、最初の作業が一段落し、受験生が解答に集中してしまうと、教室は落ちついた静寂に包まれる。受験生も敵が見えない不安と緊張から解放されて、よく知っている戦いに参加している一種の穏やかな安堵感さえ漂っている。こうなると、気分が悪くなったりトイレに行きたくなったりして手を挙げる受験生や、消しゴムを落としたなどの小さいトラブルを見つけて対応するのと、カンニングなどの不正行為がないか注意する以外、監督官にはすることがない。
することがないだけではなく、いる場所もないのだ。大抵の受験会場となっている教室には、試験官の席など設けられていない。大学教員のほとんどは現職であるかぎり、どんなよれよれの年寄りでも九十分の授業時間は、立っていられる。だから、席がなくても座れなくてもかまわないが、実は立っている場所もない。大抵の教室は座席がフルに受験生のために使用されるから、教室の隅や教壇の上に立っているしかない。しかし、そういう空間は狭いし、歩き回るにも通路も狭く、往々にして受験生の荷物が机の下からはみ出している。無理して歩けば、それこそ受験生の邪魔になる。数年前から「あまり歩き回って受験生の集中力を乱さないように」という指示があってからは、なおのこと、どこかに立っているしかない。
だが、そうなると、受験生の誰かの後ろか横かまん前にじっと立っているしかない。それも受験生にとっては、かなりいやなはずだ。立たれた者とそうでない者の間に、それこそ不公平が生じるだろう。
だから、人手がいらない時間はなるべく不要な人員は外れた方が絶対にいいというのが、私たちが現場で学んだ感覚だった。交代で抜けるのは、その結果選んだ処置だった。
ちなみに、これも今では受験生のことなど考えていたら規則違反で処罰されかねないから、私たちは全員狭い空間に常駐し、誰か気の毒な受験生の側にずっとはりついていた。それと、先般の携帯電話を利用したカンニング事件以来、監督を徹底するために、歩き回るのはむしろ義務になり、試験官の足音は生活音とみなすという判断がされるようになったため、今ではこころおきなく机の間を歩き回れるようだ。
ところで、私がこんな話をうっかりしゃべった、ある若い職人の男性は信じられないといった顔で「本当に実力のある者を合格させようと思ったら、暑いか寒いかものすごく条件の悪いところで、騒音がんがん鳴らして机を横からがたがたゆすって、その中で解答させりゃいいんですよ。そんな甘やかした試験してるから、ろくな人材が育たないんだ」と吐き捨てた。まあ一理あるかもしれないが、それについては次章で述べよう。