「大学入試物語」より(12)
また、こういうこともある。これも多分十年ほど前には、解答用紙のマークシートで、名前を書き忘れるか選択科目を塗りつぶし忘れるか何かそういう記入ミスをすると、採点不能ですべてがゼロになるようになっていたと記憶する。現在はこれは何らかの救済措置がとられるようになっていて、そこまで悲惨な結果にはならない。
で、その記入忘れが命取りになる大変な時期のことだが、当然受験生はそうなることを知っているし、高校でも予備校でも死ぬほど注意されているはずだし、もちろん私たちも解答開始直後にマニュアルの文句通りに「解答する科目を記入してください。記入していないと採点されませんから充分に気をつけて必ず記入して下さい」とか言っているのに、人間というものはある意味すごくて、一つの教室に絶対数人は、記入し忘れる受験生がいた。
注意をくり返すのはかまわないことになっていた。だから私は誰にということではなく、ただ念のため「大丈夫ですか」「もう一度いいます」と頭につけて同じ注意をくりかえすことはあった。厳密に言えば、そんな枕ことばをつけてはいけないのだが、「暖房が暑くないですか」「カーテンをしめますか」などと言うことはあるので、それと同程度の発言と私は考えるようにしていた。
だが、私と何度か同じ教室で監督をした、研究者としても教育者としても有能で、ついでに言うとその後学長にもなって立派に難局をのりきったから行政能力もあった先生は更にすごくて、私が注意を読みあげている間に、ささっと教室全体を巡回して戻ってきて、私の耳元で「もう一回読んで。三人、まだ記入してない」とささやくのだった。そして私がくり返して読むと、またさりげなく近づいてきて、「二人は書いた。あと一人はまだ気づいてない」とか言う。その後どうしたかは忘れたが、多分あとでまたくり返して注意を読んで、結局全員に記入させたのだろう。
私もその後は、教室を回って、書き忘れて空欄のままになっている受験生がいると、「もう一度よく見直して下さい。記入を忘れていませんか」と最後に近くする注意を、早めに数回行ったりした。しかし、これまた、時にはその受験生のすぐ横に立って言っているのに、本人は全然気がつかず、かわりに周囲の何人かがあわてて見直したりしていて、途方にくれたものだった。
そのことを何かの席で話すと、これも気骨があって筋をとおすが、やや自由奔放な別の先生が、あきれはてたように「何をそんなややこしいことやってるんだ、他の受験生にも迷惑だろうに。おれはそんな時は指でちょんちょんと、そいつの書き忘れてる欄のとこ、たたいてやるよ」とのたもうた。「それって、しちゃいけないんですよ」と私が悲鳴をあげると、彼はバカにしたようにふふんと鼻で笑い、彼がそれを実際にやっているのかどうか恐くて私は聞きそびれた。
しかし、彼がしたかもしれないことと、私がしていたことは、しょせん五十歩百歩かもしれない。いずれにせよ、そういう配慮をする教員とまったくしない、する余裕のない教員はどちらもきっと全国にいたはずだ。
注意をしてもらえなかった受験生にとっては、これは笑いごとではなく、許せない不公平、不正と言いたくなるかもしれない。しかし、先に述べたような利害がからむ悪意の不正とちがって、こういう運命の分かれ道は、人間がすることには必ず生じる、やむをえないことと私は思う。
これは最も極端な例だが、ここまで行かなくても、暖房の強さや陽射しのまぶしさ、空気のよどみを気にして対処してくれる試験官や、指示や注意を読みあげる声が小さかったり、言葉がわかりにくかったりでいらいらさせられる試験官や、隣りに座った受験生が貧乏ゆすりをしたり、鉛筆の音が高かったり、その他あらゆる不公平をすべてなくしてしまうことは、受験において不可能だ。
そういう、さまざますぎる要素を含んで全国一斉入試は実施されている。あえて私が言わなくても、まっとうな想像力がありさえすれば、誰にだって予測できるそんな事実を、最近の報道や社会はまったく忘れているかに見える。
本当に絶対にやってはならない不正がある。生じてはならない混乱がある。それをさけるためには、ある程度はしかたがない不公平や失敗は見逃し、目をつぶらなければならない。もともと、あらためて言うまでもない常識である、このような感覚が今の大学入試からは失われ、病的でヒステリックな潔癖症とも言うべきものに、とってかわられつつある。(2012.2.9.)