「大学入試物語」より(16)
今はそれほどでもないが、私が大学院を出て就職するころは女性というだけでまともな就職はまず望めなかった。ついでに言うと教員採用試験では女性差別が行われていることが半ば公然と認められていて、それはもう自明のこととして誰も(私でさえも)抗議もしなかった。
私が最初に就職が決まりかけた大学では、前任者のポストをひきつぐことになっていたが、おそらく私が女性だからというのが理由で、それまでのような正規採用かどうかは決して明らかにされないまま、今では珍しくないが当時はほとんどなかったいわゆる一年ごとの更新の任期採用、仮採用というかたちで話が進んだ。数度の面接の間、その大学の学長か理事かもう忘れたが全権を持った責任者のおじさんは、ずっと私を「ヨーコちゃん」と呼びつづけた。
他に就職口がないならしかたがないと私も黙っていたが、そのころ知人を介して他の大学から公募に応募しないかとの話があり、私はそのことを大学名は伏せてその責任者のおじさんに告げ、「こちらのお話が進んでいるし、優先するつもりですけれど、あちらは正規採用ということなので、こちらが一年ごとの更新なのでしたら、あちらの公募にも応じたいと思います」と告げた。
百戦錬磨の政治家のおじさんは、若い小娘の私が嘘をついて駆け引きしていると思ったらしく、どこの大学か知りたがって、しきりに鎌をかけた。私はそれは言うわけにはいかないと言い、「田舎の母が、そういうことなら正規採用の大学の方に応募しなさいと強く言うので、私も説得できなくて困っている」と言い張って、その場を逃れた。具体的にはその大学の応接室を辞去した。
門を出たとたん、当時はケータイなんてないから、私は公衆電話があるもよりの駅までスーツ姿で全力疾走した。あのおじさんなら、どこかで調べて田舎の母に電話しかねないと思ったからだ。首尾よく母をつかまえて、事情を話し「そういうわけだから、電話があったら、正規採用してもらう大学に行かせたいと言って、絶対に大学の名は教えないで」と連絡した。
この月報の昨年の連載で、九十歳越えて認知症になりかけの母を私はさんざんサカナにしたが、当時の母は私の幼いころからずっと、この世で最も「ともに戦うに足る」人物で、もしかしたら基本的にはどうぼけていても、それは今でも変わっていない。
その時も母は即座に「わかった、当然そうする」と了解した。よしと思って受話器をおいて振り向いたら、目の前に例のおじさんが立っていた。駅前に立派な車が停まっていて、どうやら私を追いかけてきたらしい。そして、「すぐこの車に乗って、お母さんを説得に行こう」と言うのであった。
私は「いえ、母は古風で頑固な人なので、そういうことをしたら逆効果ですから」と固辞して汽車に飛び乗った。
結局おじさんは私の採用条件は変えず、というか明確にはしないままで、私はその別の方の大学の公募に応じて採用され、電話で報告したら彼は激怒してもう九大とは縁を切る、二度と誰も採用しないといきまいたが、まあ結果としては別にそういうことにもならなかった。
この間もちろん九大の先生方にもご迷惑をかけたし、ご理解をいただくために何度もお話をした。最終的には先生方は私のためにあらゆる尽力をして下さった。初めは私の公募の件に難色を示されていたのに、最後は本当になりふりかまわないほどお世話して下さった当時の主任教官が、指導学生の一人の女性に「○○君、やっぱりウーマンリブは必要だよ」と、しみじみ述懐されたと後で彼女に聞いた。女性の就職のために真剣になろうとすると、そういう実感を持たざるを得ない時代だったのだ。
これはほんの一端だ。他にも研究会でいつも一人で全員のためにお茶をつぐため、ノートも取れず研究会出席をやめた女子学生もいた。そういうことから始まってさまざまの条件のある中で、男性と女性、既婚者と独身者、金持ちと貧乏人、その他もろもろの状況を背負ったどうしをライバル扱いして、あるいはライバル視してそこに公平な競争があり得ると思う感覚が、そもそも私には文学者として雑駁すぎると感じられてならない。著名な雑誌に論文が掲載される、著書がばかすか出版され、それが売れまくる、有名大学に就職が決まる、文化勲章をとる(中野先生ごめんなさい)、芥川賞やノーベル賞をとる、そういうことのもろもろを基準に自分の到達点や他人の価値を決定するということは、人生に対する手抜きとしか思えない。