「大学入試物語」より(19)
3 圧倒的な勝利
さて話をぐぐっと元に戻して、私が受験にあたって後輩や教え子に伝授していた心がけのその二は、吃水線というか、当落ぎりぎりのゾーンから少しでも遠くに(もちろん上方にだ)脱出しておけ、ということであった。
試験というものは人の能力や才能をはかるのに、役に立たない、と若いころには私も思ったことがある。だが、数多くの試験に携わってきた中で、今ではそうではないと実感している。試験は、たしかに人をふりわけるのに役に立つ。特に、試験を行って選抜する、その目的によくかなう者と、まったく不適当な者をわけるのには、きわめて力を発揮する。
ただ、どんな試験でも合否判定のぎりぎりの範囲にいる人たちにとっては、つまり一点二点差のあたりでは、その試験の正確さは非常に怪しくなる。
よく問題にされる、試験開始時間の数秒遅れとか、監督官のおしゃべりや靴音で気が散ったとか、そういうさまざまな要因で影響を受ける点数の差が、合否の差となり運命の分かれ道となるのは、この範囲の人たちで、その人たちの運命をこういった、ささいなミスが狂わせるというのなら、それはたしかに、そうである。
だが、あえて言うが、これはもうしかたがないと思ってもらうしかない。人生もそうかもしれないが、ささいな運命に左右されるというのは、それだけ不安定な位置に自分がいて、一か八かで挑戦しているということで、だめもとの受験ということでさえあるのだ。それよりもっと圧倒的に下の人にとっては、もっと万一の僥倖をたのんだ、だめもとであるが、ぎりぎりのラインにある人も結局は「誰が落ちるかわからない」場所にいるということで、それはもう「合格したら運がいい」ということでしかない。
これもいささか機密事項に関わるような、微妙な話ではあるが、一番わかってもらえそうだから、あえて話しておくことにする。
何十年も入試問題を作ってきた。次章でゆっくり述べるけれど、ひとつの問題を作るには、担当者同士で何度も検討会議をし、大変な時間とエネルギーを費やする。複数の解答が可能でないか、どこかの教科書を使っていたら有利になる要素はないか等、あらゆることを想定してチェックする。
そうやって作った問題が、よくできているかどうかをどこかの機関が評価し順位をつけることは今のところないようだ。かなり昔は週刊誌が「こんな変な問題がある」と主に国語の問題をやり玉にあげて記事にしていたが、最近はあまり見なくなった。
中には出版される過去問集のコメントや傾向と対策を気にして、皆で採点をしている会場に「ほら、うちの大学のこの前の国語の問題、『バランスがとれていい』『古典はさまざまな題材からまんべんなく出題される』って書いてある」と、過去問集を持ってきて、うれしそうに話し合っている先生たちもいて、私は他の点ではおおむね大変尊敬している、その先生方が、そんなものに一喜一憂して子どもみたいにはしゃいでいるのを、も~何だよ~と相当げんなりしていた。まあ、私の方も国文学者の立派な先生が、入試に「四書五経をすべて書け」という問題を出して「えらい不評だったらしい」と風の便りに聞いたことから、世間の評価は気にしない癖がどこかでついていたのかもしれない。