「大学入試物語」より(20)
世間の評価は気にしないが、そんな私でも多分他の出題者も、かなり気になるのは実は受験生の答案そのものである。たとえば、Aが正解の問題を、圧倒的多数がCと解答していたら、そしてその理由がわからなかったら、こちらに気づかない不備があったかと思わず問題を読みなおしたりする。記述式の問題でも「○○は××に愛情を感じたからわざとそう言ったのだ」が正解なのに、多数が「○○は△△に怒りを抱いていたからそう言ったのだ」(実際にはこんなに単純な解答ではないが)というように、ほぼ同じ系統で同一のまちがいを多くすると、やはり動揺する。
特に、ほぼ他の部分は満点に近い、理想的な答えを書いている受験生が、その問題だけまちがっていると、そして似たような例が数人あったりすると、これはもうひそかに正直に白状してしまうと「やっぱり適当な設問ではなかったのだ」「こういう設問はやっぱり無理があったのだ」と、反省せざるを得ないことも、いつもではないが、確かにある。
私はそうやって「失敗だった」とひそかに思った問題の設問を、何年たっても忘れない。その問題だけまちがっていた、ほぼ満点の答案の書面や字体までもどうかすると思い出せたりする。
だが、めったにないことではあるが、そういうことが長い年月の間に何度かあると、同時に別の印象もまた積み重なって行った。
あってはならないことなのであるが、このように「しまった、不適当な問題だった」と出題者がひそかに反省するような問題を出されてしまうことは、受験生にとっては最高の不運で不幸である。だから、申し訳ない、ああしまったと思いながら採点するのだが、そのような受験生はその他の部分できちんと正解を出し点をかせいで、結局は、そのあまり適当でない問題で失った点数など大して問題ではないような高い点数を全体としてたたき出すのである。
念のために言っておくと、それは公にされても問題にはならない、第三者の評価機関がチェックしてもおそらく誰も気がつかない程度の「不具合」「不適当」で、現実に採点していて初めて気づくような微妙な「不備」だ。
だからと言って、くれぐれもくりかえすが、私は自分を弁護するのではない。これはまずかったと後で思うような問題を出すことは決して許されない。確実にその優秀な受験生は、その問題によって被害を受け、とるべき点を失っている。
だから、私の弁護にはならないし、何の慰めにもならないが、ただ、その中でゆらがない実感として蓄積された事実として私が知ったのは、しかるべき実力のある者にとっては、まったく理不尽な不当な原因による失敗は決して全体の運命を左右などしないということだった。
もちろん、古典の解答用紙がそうであっても、現代文や漢文が加わり、更に他の科目の数学や英語や社会が加われば、その受験生が最も得意でそこで点数を一点でもかせぎたかった古典の分野で、そういう欠陥問題で数点を失ったことが全体としては決定的に運命を左右するかもしれない。
そういうことは事実としてあるだろうが、しかしそれは、ただ話の範囲が広がっただけで本質的には変わりはない。真に力があるのなら、古典で失敗しても全体としてとりかえす。更に言うなら仮に受験に失敗しても、人生の全体では得る物を得て幸せと満足をつかむだろう。
入試や選抜はたしかに一点で当落がわかれ、理不尽に人の将来を振り分ける。しかし、その一点に左右されない、もっと言うなら当落や運命に左右されない人生をめざすことは常に可能だ。どんなシステムも人間もまちがいをおかす。それにすべてを託し、信じて、自分の運命をゆだねる生き方をしないですむよう、努力しつづけることこそ何よりも必要なのだ。
若いころの私は「すべての人が幸福な世の中を作る」ことをめざしていた。多分それも私なりの、そうした努力のひとつだった。具体的には選挙の投票とデモへの参加ぐらいしかしていないが、今でもそれは貯蓄や健康管理以上に、基本的には変わっていない私の人生設計だ。
(2012.5.2)