「大学入試物語」より(18)
大昔のテレビドラマに「0011ナポレオン・ソロ」というアホ~なスパイドラマがあって、ニューヨークかどっかの普通の町の一軒のクリーニング屋の奥に、巨大な地下組織への秘密の入り口がある。
私としては、自分の研究や教育は、そのクリーニング店のようなものだった。巨大な地下組織を隠蔽するものにすぎなくて、とはいえ、開店している以上、良心的にきちんと商売はしているが、決してそれが本業ではない。
私と業績を競い人気を競い成果を競ってライバル意識をむき出しにして来る人というのは、私はいつも、通りの向こうの、熱心なクリーニング店が、こちらも普通のクリーニング店と思いこんで、売り上げや内装や洗剤の質を競おうと挑戦してくるような、当惑と不快感があった。しばしば思ったのは、こういう人はクリーニング店以外の活動はまったくしていないのだろうなということ、そして、だからこそ、私に限らずすべてのクリーニング店は自分と同じと信じて疑っていないのだろうなということだった。
こういう相手に挑戦され、勝った負けたと一喜一憂されるのも、いいとこうっとうしいのだが、それ以前にそれ以上に、こっちは目くらましの店に注目されることで、地下組織の活動まであばかれることになりはしないかと、その方が常に肝が冷えた。
もっとも最近の私は地下組織の方が(それが何だったのかは、結局いまだによくわからないままで)開店休業になっている趣きもあり、クリーニング店の活動だけで一日暮らしてしまっているようなところもある。そして、このように、人の目にふれ、はっきりと評価される部分だけになり、それ以外の部分が自分の中からなくなることは、いつも私にとってぺらぺらの薄っぺらい一反木綿になるような恐怖と心もとなさがあった。
今も昔も、そういう人は人類のどれだけ程度いるのかと私はときどき、ぼんやり考える。若い学生たちを見ていてもそれはよくわからないが、ただ、今の若い人たちは、人目に見える部分だけでも今はあまりに忙しく、人に見せない部分を作り、現実にも頭の中にも巨大な地下組織を作る余裕など、きっとほとんどないのではないだろうかという心配もしている。
人は自分の感覚でしかものは言えない。だから、これはあくまでも私自身の体験だが、そのような巨大な「見えない世界」を作るには、知識はもちろん欠かせないが、それだけでは足りない。病的なものもふくめたあらゆる感情や、身体を動かしての体験から生まれる実感、長い時間をかけてただ考えをめぐらし自他と会話する思索、そういったものがうまく配分され調合されなければ、その世界は強靭な存在にならない。そんな時間が老若男女を問わず保障される世の中は今、どのようなかたちであるのだろうか。大学は本来ならかなりそういう場所だったのだが、即戦力や就職活動といった文字ばかり踊るキャンパスには、そういう雰囲気はあまり漂っているようには見えない。
ブログでも、こういった文章でも昔から私は、今の「断捨離」とやらが、「ひとつ買ったらひとつ捨てろ」と説教するように、何か人に見せるようなことをあからさまにひとつ書いたら、その分、絶対に口外できない何か・・・喜びでも怒りでも憎しみでも真理でも法則でも、何かをひとつ、ひそかに書きとめるか考えるかしておくようにしていた。今もそれが守れているかはわからないが、どんなにくだらないことでも、見せて公開した分は新しくひそかに何かをためこむことは、何となく私の癖になっている。
「全力をふりしぼり、全力を発揮する」競争を決してしないのは、私の長所でも弱点でもないだろう。だが、それはたしかに一つの特徴ではある。そういう人かどうかは、外から見てもわからない。だからさまざまな競技や競争は、その部分に関するだけの勝敗や順位であって、それ以外のどんな評価にもなりようがない。