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「大学入試物語」より(21)

第四章 入試が大学を食い荒らす

1 年に一度の問題か?

 これまで私が書いてきたのは、ありもしないし出来もしない「絶対の公平性」という幻想が、全国一斉大学入試では極限に達しつつある異常さを知ってほしいということだった。だが、いくら矛盾があり負担になっても入試は年に一回であり、その時だけ我慢すればよいことを、大げさに言いすぎる、と感じる方もおられるかもしれない。
 事実、数年前にある新聞が「大学教員が入試問題を作りたがらない」という記事を書いたときも、目のつけどころはけっこうだが、なぜそうなるかの原因については「教員が研究の障害になるから試験問題を作りたがらない」と、さも自分の研究ばかりに没頭したがる時代錯誤の大学教員を告発するようなトーンの記事になっていて、私は怒髪天を突き、投書か電話かしてやろうと思い、せめてこの新聞の購読はやめようと思ったのだが、入試関係業務を含めた仕事が忙しくて、そのどっちもするヒマもなかった。
 それにしても、今日び、大学教員が自分の研究にいそしんで他の業務をしないなどという先入観や固定観念で記事を書くほど、大手でそこそこ良心的な新聞の記者は取材も調査もしないものなのだろうか。入試とちがって、こっちは機密事項でも何でもないから、ちょっと調べればわかりそうなものなのに。

 入試問題を作る、すなわちその年の入試の担当者になるというのは、どういうことか。また機密事項のオンパレードになりそうで心配だが、書かねばわからないだろうから書くと、入試問題の作成とはほとんど半年から一年がかりである。あの短い問題文と設問に論文ひとつ、ひょっとしたら本を一冊書くぐらいの時間と労力を費やするのだ。
 まず担当者数名が集まって会議を開くとして、他にも会議が多いからなかなか時間が設定できない。夜や休日、夏休みなどの会議はあたり前である。そして各自が問題文の原案を持ち寄って何度も会議を重ねてチェックする。
 前章で言ったような、複数の解答が出ないか、設問に無理がないかなどはもちろんだが、他にも句読点の打ち方、送り仮名や漢字が高校までの教科書と食い違っていないか、問題の内容が、どこか特定の教科書を使用している者にとって有利になったりしないか、差別的ととられる用語がないか、あらゆることを検討する。その間に各自の意見や見解が異なって議論になることもあり、一回の会議は数時間かかるのが普通だ。

 私は私立公立国立とさまざまな大学に勤務し、それぞれに入試作業に関わってきた。そのどこでも、だいたいこの手順や手間のかけ方に差はなかった。先に述べたように、入試作業のこういった内容は、私たちは親しい同僚でも先輩後輩でも師弟でも決して話さない。だから、他大学の場合がどうなのかは正直まったくわからない。
私が勤務した大学は、そのいずれもが、おおむね長い伝統を持ち、経営もしっかりしていて、各方面で良心的な安定した、誤解を恐れずあえて言うなら中堅どころの大学だったと思う。だから、もっと苛酷な状況の大学や、自由奔放な校風の大学や、名門の最高学府の大学では、手順や事情はまたちがうかもしれない。しかし、私が勤務した各大学に限って言えば、大学の雰囲気も性質もかなり異なっていたのに、入試問題作成の作業については、ほとんどと言っていいほどちがいはなかった。特にマニュアルや伝達事項があったわけでもなく、自然に共通のやり方が確立されていた。

これはもちろん大変な作業である。責任を感じるし負担にもなる。しかし、この作業自体は実は私は苦にならない。後で書くけれど、私はそもそも入試制度自体に疑問を抱き、なくすか減らすかする方がいいとも思っている。だが、それでも、入試問題の作成そのものは他の担当者との議論も含めて、決して苦痛ではない。たまにいやなやつがいたり、たがいにアホと思うこともあったりするが、それは他の会議や仕事でも同じで、特に入試関係に限ったことではない。
多分私だけではないと思うのだが、入試問題の作成を負担にしているのは、他の入試関係の作業と同じ、それが絶対の機密事項で、なおかつミスが許されないということだ。それを保障する環境があまりにも整っていないということだ。

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カツジ猫