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すみませんねえ(笑)

◎「大学入試物語」、いよいよ、どうやって試験問題を作っているのかの裏話が聞けるかと、期待しておられる向きもあろうかとは思うのですが、すみません、そういう話じゃなくて、当面は一見関係ないような話がだらだら続きます。まあ、最終的にはいろんなところで、つながりはするのですが、今しばらく、ムダ話におつきあい下さい。

◎暑さのせいか、なかなかやる気が出ないので、文庫本で、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」と、「消された家族」という、まったく救いようのないといおうか、酸鼻をきわめた殺人事件のルポルタージュを読んでいます。「カンボジア大虐殺」にも共通する、やりきれなさですが、なぜかもう事件の異常さの背後に、人間の哀しみのようなものが、しみじみと流れている気がします。

前者は母子家庭とか学校での体罰とか、そういうものの中で傷ついて行く少年たちの姿が浮かび上がるし、後者は、地方の名家だった一家が、しょうもない(としか言いようがない)男の暴力と虚言で虐げられ解体され捨てられる。農協の理事をしていたような60代の男性や、元警察官の娘婿までが、なすすべもなく言うなりになってたがいを殺し合う。

やりきれないのは、そんな異常さの中にまぎれもない家族愛や人間らしさが常に見えていることで、だからこそいいようにされるのかも知れませんが、犯人というより人間の本質というものに、何やらむしょうに、いらだちます。

◎ちなみに私は、光母子殺害事件などでもそうなのですが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対して、非常にけしからぬ本音で答えるなら、「冗談が一生言えなくなるやろ」です。
拉致事件でもそうですが、被害者が抗議し運動するのは、もちろんそうするしかないからなのですが、本当は彼らのような当事者にそんなことを私たちがさせてはいかんのだと思うのですよ。

自分に理不尽にふりかかった悪に立ち向かい、抗議している間に、被害者は否応なしに善人、聖人として行動しなければなりません。「いやあ、あんな息子は殺してもらってよかったんです、はっはっは」などという冗談は一生死んでも言えない。私にはそれが大変、一番ひどいことのように思えてなりません。

それは加害者も同様で、というか、もっとそうで、光市の事件の場合、犯人が刑務所から出した友人への手紙で、何かちょっと不謹慎な冗談を書いていたのがかなり死刑判決に影響したとかしないとかいうし、女子高生コンクリート詰め事件の時も少年法でわりと早く出て来た犯人の少年たちが、ふまじめな発言をしたというのが週刊誌にあばかれたりする。
そんな冗談や発言を口にしてしまうのは、言うまでもなくアホですが、でもその気持ちはわかるのですよね。どんなひどい罪を犯しても、いくら強く反省しても、それで生まれ変わって新宗教の教祖にでもなるならまた別でしょうが、そうでなければ、とてももう、贖罪の気持ちを持ちつづけて、まじめに悲しげに一生過ごすのなど、普通の人間には荷が重すぎる。

それでも、そうしなきゃならないでしょう。被害者側も加害者側も、笑い飛ばせない事柄を一生かかえて生きなきゃならない。そういう人が増えるほど、世の中がまじめになるしかなくなって、それは私は本当にイヤです。
私も自分自身や周囲やで、たくさんの悲劇を見て来ました。でも、それは、どんなに当人が悲劇のつもりでも、アホくさと笑ってバカにできるものなんですよ、たいがいは。吐き気がするような友人知人は私にも何人もいますが、まあ、せいぜい最終的には笑ってすませられる次元です。相当に許せないことでも。許しはしないけど、でも笑えはする。

しかし、救えない犯罪は、笑ってしまったら、それでもう、こちらは汚れるし、世の中もおかしくなる。だから笑っちゃいけないし、冗談にしちゃいけないんですが、私はそのことが、すごく腹が立つ。
「消された家族」を読んでいて、私が一番むかついたのは、主犯の男の供述があまりにひどいものだから、法廷がしばしば笑いにつつまれたというくだりです。傍聴人も検事も弁護士も裁判官まで笑ったらしい。やりきれなくて笑ったというのもあるでしょうが、私はそれに一番怒りました。そこは死んでも笑っちゃいけない。そんな男の話では絶対に笑っちゃいけない。
そして、そういう笑えないことを作り上げたことで、私はその男を一番憎むんだろうな、おそらく。

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カツジ猫