「大学入試物語」より(39)
これがもし本当に、その人がどうしてもしてみたい実験的な授業とか言うのだったらまだしも、上からか周囲からか押しつけられたノルマ達成に、その人が犠牲になってくれただけの話であり、よっぽどその人が信用できないとでも言うならともかく、「じゃおまかせします」と言って、やってもらうのが一番おたがいエネルギーの無駄にならない。
それをあれこれ熱心に皆で討議し、その人に何度も訂正や修正や補充をさせているのを見ると、本末転倒ということばしか私の頭には浮かんで来ない。こんなことなら絶対に、何かアイディアがあっても出したりはしないぞと思ってしまう。
しかし、あまりに要求されていることが私ならやれそうなことだったので、一度だけ私も、「こういう授業ではどうでしょうか」と案を出して見たことがあった。すると担当の委員会から、いくつもの修正や補充が求められてきたので、私は「それなら撤回します」と言ってすぐ引っこめてしまった。「時間をかけて議論したのに」と委員会のメンバーはかなり気分を害したようだが、いったんそういう「あなたがやりたくてやるのだから」スパイラルに入ったが最後、泥沼だと思ったから、やめるなら最初に何か言われた時にやめるしかないと、私は判断した。
私の言いたいことはわかってもらいにくいかもしれないし、その前にまちがっているかもしれない。
だが、これは会社や企業や地域でもきっとよくあることなのだろうと思うが、何か新しい企画が提出されたとき、それがいいか悪いか、成功か失敗か見抜くのは上司や周囲の能力だ。だめと思えばつぶせばいいし、いいと思えばフォローして、発案者にはできるだけ余分な負担をかけないようにするべきだ。
理解できない人間にあれこれ、ひねくりまわされている間に、新鮮なアイディアは鮮度が落ちて死んでしまう。少なくとも企画の実現にあたって、もっとも戦力となってもらわねばならない人材を、スタート以前の段階で疲弊させてしまってどうするのだ。
もちろん基本的な説明やプレゼンは必要だろう。だが、ここはもう感覚の問題だが私が見ていてやりきれないのは、もちろん全員ではないが、いろいろな注文をつける人たちの中には、「自分では到底思いつけなかったアイディアだから、せめて何か言うことで参加した気分になりたい」「どうせ責任は担当者が取るのだし、実務は自分にふりかかって来ないから、気軽に何でも文句が言える」といった、どうしようもない発想がかいまみえることだ。
しょせん自分は仕事をしなくていい、という無責任さと、何か自分の存在を示しておきたい、という無意味なプライドが、新しい企画をすりへらし、発案者を消耗させる。
しかも、あまりいいことではないが、大学改革の中で求められるこのような新企画は、それこそ選り好みはしていられない、とにかく何かやらなくてはならないといった性質のものである。せっかく無償で犠牲的精神でそれをやってくれると言っている人に対して、ぜいたくなことを言っている場合ではあるまい、というのが私の実感だった。
ちなみに私は出版や講演で、編集者や主催者などといくつもの仕事をしてきたが、企画が実現するかしないかが決まるまでのやりとりは、いずれも無駄がなく納得できるものだった。文科省とのやりとりや大学内部で、ともすれば起こる「トム・ソーヤーの壁塗り現象」、つまり、こちらから頼んでおいて、それに応じた側がいつの間にか頼みこむかたちになる、奇妙な逆転現象は起こらなかった。そもそも真剣に企画を実現させようと思うなら、そんなねじくれた無駄な儀式をやっている余裕はなかった。
これはいったい何なのだろう。猟師や猛獣がねらった獲物の風上に回り込むように、「相手が許可を求める」体制にしたがり、「許可を与える」ことがすなわち相手の優位に立つことと感じたがる感覚とは。これもまた、大学や世の中を非常に効率悪くしている、あなどれない要素だと私は感じている。(2013.1.4.)