1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 「娘を奪われたあの日から」感想

「娘を奪われたあの日から」感想

「いつかの夏」つながりで注文した本「娘を奪われた奪われたあの日から」が来たので、一気に読んだ。一気過ぎたのでまたいずれゆっくり読み直す。
軽いとか明るいとかとは、いっさい無縁の内容のはずなのに、いい意味で軽く明るく読めるのが不思議だ。まったくもって、陰惨ではない。これ以上ないほど陰惨な事件なのに。
被害者と遺族(家族や恋人や知人)の、涼やかでまっすぐな生き方と最期のせいか。見事なほどに清々しい。

私はつくづくもう不謹慎だから言うのをひかえていたのだけど、実はこの男三人がかりで女性を拉致して長い時間かけて(嗜虐性ではない、不手際から)殴り殺すという、救いようもない事件の経緯と、それを聞かされるお母さんの気持ちを考えるたびに、なぜか目に浮かび思い起こすのは、この二月に自分の本や資料が大量に破棄されてしまった時のことだった。

思い出すまいと思っても考えまいと思っても、整理できたし忘れるべきところは忘れたと思っていても、この事件で最愛の娘が残酷に、そしてどこかアホらしく殺される過程を思い浮かべるお母さんのことを思うと、反射的に、私の貴重な愛した、大事に集めて保管した本や資料の数々が、むぞうさに次々と、破かれ重ねられ縛られてごみに出される姿と場面がそれこそ映像として頭の中を流れ続けるのだった。
そんなものしか連想できない自分の生涯は、むしろ恵まれているのかもしれないけれど。でも、私には同じに思えた。不謹慎なのは百も二百も承知だが、目に浮かぶのはとめようがない。

そして、それだからこそかもしれないが、このお母さんをはじめとした、殺された彼女を愛した人たちが、悲しみつつも傷つきつつも、それで崩されも汚されもせずに、きちんとした見事な歩みを続けるのを見ていると、支えられるし、救われる。
私もこうやって、殺された彼女に励まされ、力をもらっている一人なのかもしれない。

だがさすがに、まああたりまえだが、その恩恵?は加害者にまでは及んでいないようだよね。
この本には加害者たちのその後も少し書かれているのだが、この加害者たちがこれがまた、言っちゃ何だがほんとに軽い。後悔も反省も再生も薄味で、いっそ腹も立たない。それがまた、陰惨さも凄みも生まないゆえんだろう。

加害者の二人は死刑、ひとりは無期懲役になっている。その一人が獄中からの手紙で、被害者の女性が最後に教えた暗証番号が嘘で、実は暗号だったということにこだわり、「嘘だったはずがない」とあれこれ証明しようとしているのが、全然証明にも何にもなっていないのだが、そのこだわり過ぎに「はあ、よっぽど負けたくないんだろうな、バカにされたくないんだろうな」という気持ちを感じて、それがまた怒る気にもなれないほどの軽さだ。

私はもう年だし、男女を問わず、こんな自分を見つめきれずに上滑りなプライドにしがみついて生きているやつを、ずたぼろにして粉々にしてさしあげる親切心もやる気もさらっさらないけど、ほんとに家族でも知り合いでも赤の他人でも誰でもいいから、やってやれよ、こういう人には、そういうことを。自分がどんなにちっぽけで、つまらない、バカで、みじめな人間なのかを、今さらしこしここだわっても、それはもう、どうしようもないんだってことを、そこから始めるしかないことを、きちんとわからせてやれよ。何かを守ろうとするなんて、もう時間の無駄でしかないんだってことを、ちゃんとつきつけてやれよ。おまえが何者であろうとなかろうと、被害者や遺族はもちろん、誰にとっても完璧にどーでもいいんだってことを、いっぺんきちんと教えてやれよ。

はー、何かもう脱力したので、例によって、話題ががらっと変わります。
子猫のじゅんぺいがイケメンすぎて腹が立つ話を、行きつけのお店で話していたら、なぜかソフトバンクの高橋純平投手の話になり、高橋つながりで高橋礼投手の話になり、昨日ファンサイトで見た、一年前の今日、高橋礼投手が、ベンチの扇風機のつけ方がわからないで困っていた画像を思い出した。この記事は今もときどき見るが、画像が見られなくなっていたので、昨日見つけた時は思い出して笑ったのだった。

ちなみに、もふもふ猫のカツジ君は、今日、お隣のご主人に作っていただいた、新しい棚の上で、ご満悦です。

Twitter Facebook
カツジ猫