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「小津久足の文事」。

前にちょっと紹介した菱岡君の本、いよいよ14日に発売になって、いろんな人の目に触れている。私としては久足について初めての研究書が、こんなにかっちりしっかりとしたもので出たことがとにかくうれしいのもあって、本全体の出来もなかなかいいとは思っていたが、それは身びいきもあるかもしれないし、世間に通用するのかなと心配していた。そうしたら、飯倉洋一君が、ものすごくほめた書評をブログに書いてくれて、安心したけど、びびった(笑)。
つくづく思うのだが、菱岡君といい飯倉君といい、ちゃんと学問をしていて、自分の研究に自信のある人は本当に悪びれずに勇敢に、全力で惜しみなく、ほめる時はほめるなあ。学びたいが、無理そうだ。

http://bokyakusanjin.seesaa.net/article/444059960.html

私は前の感想を書いたあと、メールで菱岡君に、「久足の紀行について、これだけきっちり調べた研究書が出たこと」「それも、和歌も含めた彼の全体像として描かれたこと」「老成した大学者でも書きそうな、壮大な文学と人生のありかたというテーマの枠組みの中で語られていること」が、うれしいと書き、「このような私の感想を世間が共有してくれるかはわからないが、少なくともこれだけは自信を持って言えるのは、久足自身はきっと、こういう紹介のされ方に大変満足し喜んでいるだろうということだ」と書きました。

菱岡君のブログには熱烈なファンもおられるようで、その方の感想もとてもほめて下さっています。

http://d.hatena.ne.jp/pisces0307/20161118/1479448427

その方も飯倉君も、久足と菱岡君がとても似ている、と書かれていて、うんまあそうかとも思うけど、これは前に吉良史明君に言ったことがあるのだけど、研究者がある対象をていねいに熱心に研究分析してるとね、その研究者の描くその対象のすがたって、どこか絶対、研究者自身に似て来るのよね。
私は貝原益軒の人となりと文学について、それなりのイメージをまとめて、人に語ったり書いたりしていて、まあまちがいではあるまいと思いつつ、私は益軒を理解しているようだけど、結局は自分の理解できる人間像で再構築してるだけかもしれないという気もして、まあそれもしかたがないかと開き直ってもいる。

何しろ私は自分じゃ忘れているのだが、かつて菱岡君に「論文なんて皆しょせんは嘘だからね。わかりやすくて面白い嘘を書くことよ」とか言ったらしい。彼もまた、そんなこと覚えとくなよと思うけど、研究対象の実像なんて、しょせん幻想で、書いてる研究者の投影じゃないかとどこかで思ってる私だから、そのぐらいのことはたしかに言いかねない。

吉良君に言ったのは、せめてそのことを常に自覚し、自戒しておいた方がいいということだった。彼の論文に現れる中島広足が、どこか吉良君に似た、若々しくパワフルで野心家なイメージを与えることに関わって。もちろん、そういうイメージを読者に与えるということは、何も与えない論文よりは、ずっといいのだけど。

◇ええと、何でこういうこと書くかというと、菱岡君と久足が似ていることになっちゃうと、これから書くことが書きにくくなるからで、実は私はときどき久足の文章読んでて、むかっとすることがあるんですよ(笑)。芭蕉とか益軒とかが持っていた、たいがいの人間が持っているだろう、生まれてきてすみませんとか、こんなに恵まれてていいのでしょうかとか、そういう後ろめたさがこの人何だかまったくないのな。その後ろめたさの裏返しの「おれは他者よりすぐれてるから幸福でいいんだ!」みたいな、あえてする自己肯定もないんだよな。何でそんなに落ちついて、自身の幸福を甘受できるのって、紀行文読んでてときどき呆然とする。紀行文ですよ、そういう人間性があんまりあらわれないはずの紀行文でそれですよ。何なんだろうねこの人はまあ。

菱岡君のことは一応指導学生だから知ってることもいろいろあるけど、知らないこともたくさんある。彼があとがきで書いてるように、おおかたの人と同じく彼も久足ほどは恵まれた環境にないし、いろんな苦労も多分しているだろう。でも「小津久足の文事」を読む人が皆そう思うらしいように、彼と久足が似てると言われると、たしかに久足もこの本を読むとそれなりに苦労はしているようだし、菱岡君の決して空元気ではない、みっちりつまった元気さは、やだもう、ほんとに似てるのかも。直近で言うと、私が彼の「あとがき」について、「あんなに私のことほめたら私はこの本、人にプレゼントできなくなる」と訴えたら「そうですか?」とまるっきり相手にもしなかった、あの様子はたしかに久足っぽい。

いやまあ、それはどうでもいいけど、何が言いたいかというと、久足は、これだけのすぐれた紀行を書きながらまったくの無名で、それは菱岡君が書いてるように、それなりの意図した選択であり美学であったとしても、やっぱりある意味不幸で不運と思う人もいるかもしれないことではあって、でもですよ、そうやって長いこと無視されてきたおかげで、いきなりこれだけ、きっちりと良心的で魅力的な紹介をされてしまったわけでしょうが。
芭蕉にしても益軒にしても、めちゃくちゃ有名で文献も多いけど、そこには誤解やしょうもない紹介もいっぱい混じっているわけで、論文が山ほどあっても、書かれた本人にとってはいったいこれは誰のことなんだと言いたくなることだってありそう。

それにひきかえ久足は、いきなり最初からこの「小津久足の文事」で、世間に認知されるわけですよ。有名になったとたん、ほぼ正しく理解されるわけですよ。これ以後多分、彼についての、いいかげんな記述やまちがったイメージは横行できなくなるわけですよ。何かもう、どこまでも、やっぱり幸運で強運な人だなあと思うとね、うん、ちょっと、むかっとする(笑)。

◇とにかく、飯倉君のお墨付きをもらったから自信をもって宣伝するのも、我ながら情けないことですが、これは本当に、研究書でありながら、どこか文学のような、いい本です。菱岡君自身が多分そうなんですが、文章や全体からただよってくる雰囲気は、若々しくてみずみずしい一方、びっくりするほど老成していて、古典小説のように古めかしいなつかしさがあります。
少し高くて買えないと思われたら、ぜひとも地元の図書館や大学図書館に購入してもらって下さい。私がびびった「あとがき」も、他の方も書いておられるように、ひとつの本、一人の研究

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カツジ猫