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「断捨離潜水艦」内容紹介

「断捨離」シリーズ四冊の、一応三番目の本です。
 とは言っても、どの本から読んでも、別に困りません。

内容はすべて、私の晩年の断捨離、終活にまつわるものですが、
むしろ、処理しようとする中で思い出す、さまざまな品物や人に関する雑談が主になっています。

このシリーズの前に、文芸社から出版した「断捨離狂騒曲」「断捨離乱れ箱」の二冊があります。
 購入ご希望の方は、この書き込みのずっと下の方をごらんください。(思い切り下まで下がって下さいね。)

この四冊について言えば、数年前に郷里の家の書庫に保存していた、私の老後の仕事に必要な資料や書籍を、断捨離好きの知人が、きれいに家を片づけて私を喜ばせようと無断で大量に処分してしまい、私が一時過去も未来も失われた心境に陥って、何とか立ち直った、あまり楽しくはない体験を中心に、それまでと、それからの、さまざまな私自身の断捨離(もどき)のことを書いています。

そういう点では、いささか闘病記風、ホラー小説風でもありますが、全体としては、あくまで「一風変わった、笑える断捨離話」として、お楽しみ下さい。

実は、最初からぶっちゃけますが、私は特に身辺雑記など書くと、「まじめ」「真剣」な生き方、考え方と受けとめられて、そのような書評もいただいたりするのですが、私としては、そのアホな真剣さも自分で笑っていますので、ほめたり感心したりしていただくと、むしろ大変くすぐったいです。

どんな悲劇も失敗も死も生も、結局は冗談にできるし喜劇になると思っています。それこそ、まじめに断捨離にとりくんで快適で健全な生き方をめざしているかたには、腹立たしかったりあきれたりされるかもしれませんが、私の深刻すぎるかもしれない思考や考察は、何よりも「その方が面白いからやっている」ということは、何とぞご理解下さいませ。

前置きが長くなりましたが、目次の紹介です。なお、このほとんどは、ブログ内の「断捨離狂騒曲」のコーナーで読めますが、「序にかえて」「あとがきにかえて」「神様はいたのかも」「ハイタッチ」1~3、などは、この紙本かすでに発売している電子書籍でしか読めません。

電子書籍は紙本に比べると安いのですが、紙本は装丁や製本が魅力的で、価格もできるだけ抑えていますので、できれば、こちらをお買い求めいただきたいと作者としては思っています(笑)。

以下、目次です。

序にかえて 人の記憶
 あまりにも、なつかしい
 スツール三兄弟
 ちょっとだけ、誇らしい
 中継地点
 ぺて子
 菓子入れと漬物鉢
 働く美術品
 風を呼べ!
 季節の変わり目
 お墓とアザラシ
 ついに、この日が!
 すべてはやがて灰になる
 初めてのハンギングバスケット
 トイレの日金山
 どこで拾って来たんだよ
 どこかに仲間がいるんだね
 ひとりよがり
 人は変われる
 ハイタッチ(1)
 ハイタッチ(2)
 ハイタッチ(3)
 神さまはいたのかも
 あとがきにかえて カメラとiPhone

故郷の書庫の貴重な資料や書籍が捨てられた体験についての話は、もう、この本ではほとんど登場して来ません。最後に近く「神さまはいるのかも」は、廃棄されたと思っていた本のひとつが残っていたという、ちょっとだけめでたい話です(笑)。あと、「すべてはやがて灰になる」にも、捨てられる寸前の本をしばっていたひもを、切ってほどいた、その切れ端を最後まで活用したという、自分で読んでも気味悪い執念深い断捨離(笑)が登場しますが、それくらいかな。

むしろ、この本の中のまとまった読み物は、九十八歳で亡くなった母の葬儀の記録「ハイタッチ」の連作です。母の人生や人となり、死と葬儀のことを書いています。しかし、その中でも、私の母への愛が消えた、ある猫にまつわる思い出や、同時に母との別れを充分に惜しめなかった結果、私の中から失われた政治活動や社会活動に対する熱意、など、いわば、魂や心の中の、これは消えることはあるまいと思っていた愛や信念などの、思いがけない断捨離についてもふれています。「あとがきにかえて」の中で私はこう書いています。

「断捨離は品物に限ったことではない。
 信じてたもの、愛していたもの、それを心の中で切り捨てたり、変化させたり、距離を置いたりするようになることも、目に見えないが大きな断捨離である。」

私の母への愛を薄らがせた、その「ある猫」おゆきさんは、私が自分ひとりで飼った初めての猫でした。この本では、それ以外の猫たちについても書いています。特に私が最も愛した金色と白の猫(ただの赤きじ猫と人は言うかも。笑)キャラメルと、最後に飼った個性豊かな、いじけとびびりが限りなく魅力的だった灰色猫のカツジについては、「お墓とアザラシ」「中継地点」などで、時にはややわいせつな題材もまじえて、かなり詳しく記しています。
 逆にどうしても苦手だったクモを、何とかがまんできそうになった体験も「人は変われる」に書いています。

原発はトイレのないマンションとよく言われ、事実その通りだろうが、わが家のごみ処理の実態についても、かなりこまごまと書いている。「ちょっとだけ、誇らしい」「中継地点」「トイレの日金山」などがそうだ。ただし「トイレの日金山」は、私の本職でありながら全然話が登場しない、国文学の研究者の世界にもふれていて、こんな題材は(資料が廃棄された例の事件を除けばだが)この章と「ハイタッチ」の3、あと一つぐらいしかないかもしれない。
 また、たまったティッシュや線香や洗剤を使い尽くした快感や、台所の棚の食器の整理など、比較的まっとうな「断捨離」の話も「ついに、この日が!」「ひとりよがり」などには登場する。

 

屋内だけではない、庭や戸外や植物に関する章も、少しずつ登場している。「風を呼べ!」は、沖縄旅行の体験もまじる。「初めてのハンギングバスケット」も植物を飾ることにまつわる話だ。「ぺて子」や「どこで拾って来たんだよ」「どこかに仲間がいるんだね」は、母や叔母や田舎の家の思い出とともに、老人ホームやヘルパーさんを利用した母の介護体験や、高齢者のファッションについての苦労話を書いている。

↑さりげなく、下にカツジもいます(笑)。

その他、「あまりにも、なつかしい」「スツール三兄弟」「菓子入れと漬物鉢」「季節の変わり目」「働く美術品」「あとがきにかえて」などは、いずれも古いものを捨てかねたり、活用しようとして逆にものが増えたりする、まあ断捨離の挫折や失敗や、それら身近な品々への愛着だか執着だかについて書いたもの。確信犯も、無意識のものもある。

↑む、この下にもカツジが(笑)。

最後に、冒頭の「序にかえて」は、例の資料廃棄事件が発生する以前に書かれたもので、断捨離に真っ向から喧嘩を売っているようにも見えるが、別にそういうことではない(笑)。その必要性も有効性も、私なりに充分意識している。
 ただ、一方で常に私の心のどこかには、次のような懸念がある。以下の引用はいずれも「序にかえて」からだ。

「すぐにできるものを量産して、すぐに捨てる。こわれやすい、愛着を感じなくてもいいものを、気軽に使っては手放して行く。たとえば子育てや介護で忙しい中では、そういう生活もやむを得ないのかもしれない。しかし、あくまでも現実は徹底的にわきにおいた理想論として言うと、保育所でも病院でも監獄でも、そういう場所だからこそ、長く使える美しいものをていねいに愛して使う場所と時間と人手を保障できたなら、子どもも老人も犯罪者も(いっしょにするかね)どこかちがって来るのではないか。ものを量産し、消耗することは、人間や国を、消耗品としてしか見ない感覚にもつながりはしないか。」

「逆に豊かさを満喫し、高価な車や服や装飾品を浪費する人たちにしても、それが愛情や満足の対象でなく、気に入らなければ即処分する消耗品でしかないのなら、貧富の差も高級品も安物も関係なく、それは生き方の安直さ、軽さとしては同様だろう。それもまた楽しいと言ってしまえばそれまでだが、その楽しさや苦しみは、多分ホームレスの生き方と基本的には変わらない。」

「もしかしたら、そうやって、とっとと忘れて消し去るのは、物にとどまらず人にとどまらず、記憶や歴史や過去といったものを無視して、何も見ないで考えないで生きることにもつながらないか。まあそれも、悟りを開ききった高徳の禅僧などの境地にも通じるものがあるのかもしれないが、多くを得て煮詰めたあげくに到達した空白や無とは、やはり何かがちがう気がする。」

そして、そういった懸念を生み出す根底にあるものは、まだ幼児の時期に私が見た絵本の残った破片を見たときに、あまりにも鮮やかによみがえる、当時の気分や感触だ。八十歳近くなった今、それがこれだけ明確に再現されることへの驚き、ひいては人間そのものへの興味と畏敬だ。

「不思議な気がしてならないのだ。今は高齢者になった自分が、多分まだよちよち歩きで、ことばもあまりしゃべれない幼い時に目にした絵本の、ひとつひとつの絵の記憶が、こんなにまでも残っていて、実際の絵とともに、焼きつくように再現されて行くことに。
 人の心は、脳髄は、魂は、心臓は、いったいどこに散らばって、貼りつけられて、保存されているのだろう。
 誰のものでもない、私の記憶。私が消えれば、失われるもの。
 だからこそ、今、私の中で、それらは楽しく、かけがえがない。」

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カツジ猫