「日本辺境論」によせて(3)
4 「赤毛のアン」の地方と中央
やだねもう。「侍の名のもとに」もそうだったけど、これも何だか、ものすごく長く伸びそうな。毎度のことながら知らんぞもう。
「辺境の思想」というのが、いつも他者の評価を気にし、基準をどこか遠くに求めるというのなら、「ラフな格差論」でもしばしば書いたが、私にはその感覚が壊滅的なほど欠如している。
何しろ生まれてこのかた一度も、「誰かのようになりたい」とか「誰かがうらやましい」と思ったことがない。人と比べられるのが大嫌い、ライバル扱いされるのが大嫌い、うらやましがられるのが大嫌い、あこがれられるのも大嫌い。ちょっとどうにかしておかないと自分でもまずいなと考えることが時々ある。
「辺境論」に関して言うなら、「地方と中央」という感覚もそうだ。
若いころよく、いろんな人から、「九州にいちゃだめです。東京に来ないと」みたいなことを言われた。一度、名古屋に勤務先が移ったときは、「これであなたも東京に近くなった」と喜んでくれた人までいた。
その時も今も、私はそう言ってくれる人や勧めてくれる人の感覚が、脊髄液から根本的にわからないのだが、これと同じか似たようなことは、たとえば音楽活動や演劇活動その他いろんな文化的なことをしている人は、きっと一度は誰かに言われることなのだろう。
で、私はいつも、そういう時に、ごくごく自然に考えていたのは、「私のいるところが中央だし」だった。断っておくが、「私にとって」という前置きはつかない。世界にとって世の中にとって、私のいる場所は常に中央だと私は思っていた。
内田樹さんは、何かの講演会でフロアから「先生のその根拠のない自信はどこから来るんですか」と聞かれて大爆笑してしまったそうだが、聞いた人は悪気でも皮肉でもなく、本当に虚心に不思議で聞いたのだろう。私のこの「ここが中央」という感覚にも、まったく根拠なんかない。でも、移動性のバリアみたいに、私の回りの中央は、私のいる先々に私とともに移動する。北海道に行こうと南極に行こうと、それは私について来る。いつも私とともに、この世の「中央」は移動する。そもそも今はさすがにそこまでも威勢はないが、若い時には私はマジで、自分がもし目が見えなくなったら、点字で小説を書いて、それを読みたいばっかりに、すべての人が点字を学ぶようにしてやると考えていたもんなあ。
九州大学の恩師二人、中村幸彦、中野三敏両先生は、ともに時代と日本を代表する近世文学の第一人者だった。その方が東大でも京大でも北海道大でもなく九大におられて直接に教えを受けていたということは、少しは私のこういう感覚を養うものであったかもしれない。しかし、そもそも私はときどき「しょせんは中村先生も中野先生も、私を指導したことがあるというだけで、歴史に名が残るのだ」と酔っ払ってもいないのに、平気でしゃべっていたこともあるので、お二人にお会いする以前から、そういう感覚はどこかにあったとしか思えない。
そうなると、私のこういう思想を培った大きな苗床は、やはり子どものころから読み漁っていた小説類としか言いようがない。無名の主婦や貧しい煙突掃除などが、主人公になりスポットをあてられ、世間的には誰にも知られないまま死ぬというような話は、いわば全部が「ここが中央」の世界だからだ。
もう少し具体的にそれを意識させられたのは、幼いころから愛読した「赤毛のアン」の思想だったのではないかと思う。というか、作者モンゴメリの思想かな。
「エミリーはのぼる」シリーズでは、作家を志すエミリーに、ニューヨークの著名な女性作家が、まさに「あなたはこんな田舎にいたらだめ」「都会だけが与えられる教育というものがある」「あなたは、ここにとどまれば、きっと真夜中の二時に目がさめて、中央に行かなかったことを後悔する」「真夜中の二時は、そうやって、ずっとあなたを苦しめる」と予言し、警告し、勧誘する。
それに対してエミリーは、迷ったあげくにだが、田舎にとどまることを選び、「私はここでは成功しないかもしれません。でもそうだったら、ニューヨークに行ってもきっと成功しないでしょう」と言うのだ。
漠然と感じていたことでも、ことばにして表現した瞬間に、それは鮮やかに強烈に顕在化し、碑銘のように目に見えるかたちとなって焼きつけられる。モンゴメリとは私にとって、しばしばそういう作家だった。
たとえば「アンの幸福」に登場する、アンにあこがれ崇拝するヘイゼルという少女。この少女の持つ俗物性と卑しさと、そうでないけれど似ている人との決定的な差のようなもの、まさに儒教で最低の人間として位置づける「郷愿(きょうげん)」ともいうべき性質を、これほど明確にあぶり出して指摘し断罪した文学を、純文学も古典文学も含めて、私は今まで見たことがない。
あれを読んで以後は、私に近づく人の中で、何かわりきれない、どこがいけないのかわからない人を見て、もやもやとする時に、「あ、ヘイゼル」と思ったとたん、すべては雲が晴れるように、一気にすっきり解決した。このことだけでもモンゴメリは私にとって、唯一無二の作家であると言っていい。
この「地方と中央」もそうだった。「エミリー」シリーズは「アン」シリーズに比べると整わないし、最後の方は訳者の村岡氏の体調もあってか、かなり不十分で乱れている。それでも、この女性作家とエミリーのくだりは、私のぼんやりした感覚にずっと、どこか背骨の芯のような、何かを加えてくれていたはずだ。(つづく)