ラフな格差論10-天才はうらやましくない

嫉妬の心理がわからない

金持ちも美人も、基本的にはうらやましくないが、中でも天才はまったくうらやましいと思わない。映画「アマデウス」の脚本を書いた何とかいう作家は「わが命つきるとも」も書いた人のようで、私は後者はもう生涯でも一二を争うほど好きな映画で、感動したし理解も共感もできたのだが、「アマデウス」の方は死ぬほどわからなかった。いや、理屈ではわかるし一応理解もできるのだが、モーツァルトという天才にあこがれつつ嫉妬するサリエリの心境が、その核の部分で私には本当に実感できない。

音楽映画創作科学スポーツ料理その他もろもろ、あらゆる分野で天才と呼ばれる、たぐいまれな才能を持った人はいる。だが私はそういう人がいると、ただもう、ありがたい役に立つと思うばかりだ。きれいな演奏、名演技、すばらしい絵、面白い小説、便利な機械、それらのすべては、この私を楽しませ楽にしてくれるためにあるものであって、世の中を快適かつ便利にしてくれるものであって、どこをどう考えたら、自分にその才能がないことを悲しむという心境になれるのか、まったく理解できない。

お客さまでいる幸福

私にそういう才能がないということは、そういうものを享受し楽しめるお客さんということではないか。これ以上の幸福、これ以上のぜいたくはない。
天才と言われる人が死ぬほど努力していようと何もしないで楽々とやっていようと、それも私にはどっちでもいい。ただ彼らが生みだす成果だけを目を細くして舌なめずりして味わっていたい。

それを生みだしている人が、わがままでいやなやつでも、別に気にしない。いいものを作ってくれさえすれば、それで満足だ。その人が高い報酬をもらい、大変なぜいたくをしていても、気にはならない。私を楽しませるすばらしいものを生みだしてくれるのだから、少々のどころか、ものすごいぜいたくをしてもらっても、私はまるでかまわない。

誰も書かないから私が書く

私は自分でも文章を書いたり小説を書いたりするが、それは誰も私が読みたいものを書かず、知りたいことを教えてくれず、考えていることを言ってくれないからであって、しかたがないから自分で考えたり書いたり調べたりして気持ちを整理したり心をほぐしたりして楽しんでいるだけだ。
小野不由美という作家が登場してきたとき、私は彼女の小説にはまって、これでもう私は小説を書かなくていいと喜んでいた。最近ではちょっとそうでもなくなったが、「十二国記」の最初のころの小説はもう心から、私にそう思わせた。
他にも好きな小説は、私は暗記するほど何度でも読む。絵も音楽も同じである。享受する喜びにまさるものはない。作り出す苦しみを知っているから、なお、そう思う。

うらやんでいるのは多分、才能じゃない

もちろん、天才ともてはやされる人の作品で私を喜ばせないものはある。だが、それは私を楽しませない時点ですでにもう何の価値もないわけで、いくら世間が天才とほめそやそうと、私には特に魅力を感じられないのだから、うらやましくなるわけがない。そんな人が他人にどんなにちやほやされてもぜいたくをしていても、それもまた、まるでどうでもいいことだ。

実際私は嫉妬という感情が、特に天才については、どこにどうやってしのびこめるのか、どうしてもわからない。
私自身がうらやましがられる、わずかな体験から考えても、人の才能や能力をうらやむ時、大抵の人は、その才能や能力そのものではなく、それによって得られる賞賛や評価、快適な生活、豊かさをうらやんでいるにすぎなくて、それは天才をうらやむというのとはちがうのではないかと思えてならない。どこか、微妙にずれた所で、あこがれて、うらやんでいる。

どうしようと本人の自由

私を楽しませ喜ばせる、本当に素晴らしいものを生みだす人なら、私はもうそれだけで、その人がどんなぜいたくをしようが人に大事にされようが文句はないし、その人がその才能を粗末にしてほろぼしても、その人を責めようとは思わない。それは、あくまでその人のもので、その人がどぶに捨てても私に口を出す権利はない。
また、その人の生みだすものが、特に私を喜ばせ楽しませなければ、なおのことその人がいくら周囲に評価されようがどうしようが、まるでどうとも思わない。その人の才能は私にとっては価値がないのだから、そもそも気にもしようがない。

天才とは、時にゆがんだやり方でも、人の役に立ち、世の中のためになるものである。科学でも文学でもその他の何でも。そして、そういう才能を自分の内に持っているのは、危険だし疲れるし苦しいし、実際あまりろくなことはないものである。ありがたい存在であるとともに気の毒な存在である。だからこそ大事にしたい。トキやコアラやパンダのように。

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カツジ猫