「椿説弓張月」現代語訳の最終巻感想(2、これでおしまい)
(1)の続きです。
最後まで読んで、個人的にふしぎなのは(笑)、主人公の為朝の存在感の大きさです。これだけの波乱万丈の大長編を、どっしり支えてゆらがない。変に突出した個性があるわけでもなく、理想化された優等生と言えばそうなんですが、全然影が薄くないどころか、暖かくて明るくて力強くて、その癖どこやら怪物めいたすごさや不気味さも漂っている。馬琴の長編を全部読んでるわけではありませんが、こんな存在感のある主人公は他にいないのじゃないかと思う。特に野球ファンというわけでもないのですが、昔初めて福岡の球場でソフトバンクホークスの試合を見たとき、外野席からでは豆粒ほどにしか見えない柳田悠岐選手の打席の姿が、ものすごく派手で巨大に見えて、スター選手とはこういうものかと理屈抜きで驚いた、あの印象とちょっと似ているかもしれない。そのくらい、比べるものが思いつかない。
子どもの頃に講談社の少年少女世界文学全集で読んだ「弓張月」の為朝のイメージが残像のように残って、それも影響してるのかと思ったりするけど、子どものころから私はどっちかというと、英雄でも豪傑でも、どこか弱くて欠陥のある個性的で頼りない人が好みで、健康的で安定しまくりの為朝タイプにはそんなにのめりこまなかった。それでも、もちろん好きでしたが、そんなに強烈にはまった記憶はない。

とすると、基本的にはやっぱり馬琴のすごさなのか。あるいは、これも過不足なく原作を消化し尽くして現代に再現させた現代語訳者の菱岡憲司氏の力量なのか。いろいろ考えて見たけど結局わかりません(笑)。何がすごいって、その魅力が、ここがこうとか、あの場面がとか、特に指摘して明確に分析できないところで、作品全体の要として、全体にとけこみながら作品世界全体を支配している。今後、誰かぜひ、専門家でもミーハーでもいいから、この為朝の人物像の魅力について考察してほしい。いったい誰を下敷きにして、ヒントにして、馬琴はこういう人物を造型したのでしょうか。いわゆる扁平人物っぽいのに、円球人物のようなリアルさも漂わせて。よく批判されるような「非現実的な思想のお化け」では絶対にない。武士として政治家として家庭人としての為朝のあり方に、もっと分析を加えてほしい。
またド素人っぽい暴論を口走ると、これは女性的で優雅な関西の文化じゃなくて、歌舞伎の荒事っぽい江戸の文化が生んだ主人公かもしれないなあ。軍記物の伝統も活かされているのかもしれないなあ。
私がしっかり読んだ馬琴の長編と言えば、この「弓張月」と「八犬伝」と「俊寛僧都島物語」と「傾城水滸伝」ぐらいしかないのだけど、それらの作品、特に「八犬伝」の主人公たちと比べて見ると、為朝をはじめとした「弓張月」の主人公集団(正義と善を具現する側の人々)には、「八犬伝」の主人公たちに内蔵されるような、冷酷さ、集団を無視する自我、といった、ひとつまちがえば邪悪な要素が皆無である。逆に言うと、よくもこれだけ清らかでまっとうな人たちばかり集めて、あれだけの多彩な味方の群像を描けたものだと、むしろあきれる。テレビで先日誰かが白一色でも限りないバリエーションの色合いを示せるとか言ってたが、それをちょっと思い出しさえする。
「八犬伝」の犬士たちの群像の中から為朝に一番近い人物を選ぶなら、おそらく犬飼現八だろう。そして先に述べた、「弓張月」には存在しない、冷酷さや身勝手さを体現するのは、犬坂毛野と犬山道節だろう。そこには、馬琴が「弓張月」では味方の中には包含しきれなかった新しい異分子の要素が誕生している。これについては詳しくは、『復興する八犬伝』に所収していただいた私の「八犬士の描きわけ」を、このホームページにも収めているから、ぜひ読んでみていただきたい。(まったくどーでもいいことだが、私はこの本の原稿依頼を出版社からいただいた時、馬琴研究では著名な板坂則子さんとまちがえられたのではないですかと、びびって電話で確認したものだ。)
今あらためて久しぶりに、この論文を読んでみると、最後の方で私は、菱岡憲司氏が解説で指摘した、戦後処理の描写への馬琴の熱意にもふれており、また、「忠臣が誤解されたときの身の処し方」についての同様の熱意にも注目している。そして、この「誤解される忠臣」のテーマは、すでに「弓張月」でも印象的で重要な場面がいくつか登場してきており、馬琴の関心の深さを物語る。それに関連して、究極の悪人が実は善人だったという、歌舞伎や浄瑠璃には死ぬほど登場する、いわゆる「モドリ」の設定も、「弓張月」の終盤の重要な要素として使われているのがわかる。これについては、菱岡氏も研究の初期にいくつかの「モドリ」に注目した論文を書いておられたと記憶する。私も学生向けのテキストで、「ぬれぎぬと文学」というのを作って、江戸時代をはじめとした古今東西の文学の、冤罪好みについて分析したことがある。馬琴の作品においても、この設定は欠かせないものであると同時に、彼が得意としていたことが、「弓張月」からも見てとれる。
ふう。まだいろいろとあった気がするのだが、話せばほんとにきりがないから、今回は一応ここまでに。
菱岡氏の解説は、この作品を現代語訳する意義についても充分に述べている。さらにつけ加えるならば、私は一応江戸文学の研究者だし、馬琴の作品は現代人にも決して読みにくいものではないのだけれど、それでも、なおかつ、こうやってするすると今のことばで読めることで、さまざまな連想や発想が生まれるし、新しい発見もあることを実感し痛感した。また、さらに、古文に抵抗のある一般の方々が、こうやって現代語訳で読むことで、専門分野の研究者は気づかなかった魅力や疑問の数々を多数発見し、馬琴のみならず文学の視野を広め、深めて下さることは、どれだけ馬琴を(大河ドラマでおなじみになった蔦重も)喜ばせてくれることかと予測する。
そして、それが好みにまかせて適当になされた現代語訳ではなく、一語一語に徹底的な検証と追求を行う手間を惜しまず、まるで馬琴その人のように徹底的なローラー作戦もどきの調査を行った上で、なおかつ流麗な流れや怒涛の勢いを失わず、原作を活かした、あらゆる点で信頼して身を任せられる現代文で味わえることは、何という贅沢で幸福なことか。個人で手元に置かれるのはもちろん、小中高の学校の図書室、自治体の図書館など、限りなく広い世界に、この本が流布されることを心から願ってやまない。