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「渚にて」症候群。

◇上の家を片づけていて、ふと棚にあった文庫本「渚にて」を手にして、下の家に持って来て読みはじめた。自分の老後の計画なんてまだ何もないけど、ひとつはこうして、気ままにその日に読む本を選んでお茶を飲みながら時間をつぶすことだ。今は散らかりつくしているし、仕事もまだ忙しいけど、いずれはもっと優雅にそれができるようになったらいいなと夢見ている。

こういう、未来の生活をかけらだけでも夢想するのが、片づけには重要で、でないと今、残す本と処分する本を決められない。仕事を続け、完成させるのに必要なものは残すとして、それ以外の最後に残すのは、子どものころ読んだ古い児童文学全集や、時間がなくてゆっくり読めていないが、いずれは読みたい全集などなど。その基準が決まると、片づけをするのに迷わない。

ネヴィル・シュートの「渚にて」の文庫本は新訳と旧訳と両方私は持っていて、旧訳の方は18年前、愛猫のキャラメルが弱って死んで行く前のひと月ほど、他の本は読めず、なぜか手元にあった「渚にて」と「ロリータ」だけをくり返し読みつづけていた。特にその二冊が好きだったわけでも何でもない。むしろ好きな本を読んで、つらい思い出で汚してしまうのが恐くて、そのへんにあった、適当な本を選んだのだと思う。

「渚にて」を最初に読んだのはもっと若いころで、放射能で全世界が死に絶えて行く最後の日々の描写が、ふしぎにのどかで明るいのに、まさかこんなと非現実な気がして感情移入できなかった。
しかし、震災や放射能事故、さらにはここしばらくのアメリカのトランプ大統領のやっていることを見ていると、恐ろしい未来が迫っているのに、それを見もしないように多くの人が日常の暮らしを続けているのを見ていると、「渚にて」は、ものすごくリアルな文学だったのかもしれないと、本当に痛感する。人類は、多分こうやって破滅に向かっていくのだ。もうすぐそこに、それが来ているような戦慄を、どの部分にもまざまざと感じる。

大統領就任後の、ここ数日の様子を見ても、トランプは明らかに狂っている。日本の首相も、その他、私が知っている大学や自治体のリーダーたちも、あり得ないようなことをし始めている。それに抵抗する人たちがいても、何もせず、見ようとしない人たちはとても多い。つまり、トップの人たちの狂った行動は止められず、彼らが何を起こすかは、もう予想もできない。世界も地球も、私の知る限り、最大の危機を迎えている。「渚にて」の未来は、今もう決して架空の夢物語ではない。

◇そんな中で私は、とにかくせっせと、家の中を占領したダンボール箱を片づけている。どこか夢のような気持ちのまま。数か月後には生まれたばかりの自分の赤ん坊や優しい夫をはじめとした、人類すべてが放射能で死に絶えることを一応知ってはいながら、来年に向けて庭づくりに没頭し、子どもの成長を夢見てベビーサークルを組み立てている、「渚にて」の中の若い妻のように。

田舎の家の山のような荷物が、こちらの家に入り切るかどうかが心配だったのだが、それは大丈夫とわかった。まだ、こちらの家は荷物の間を立って歩けるし(笑)、生活にも支障はない。田舎の家はもう、いつ人手に渡ってもいいように空にして、物置きに残った書類や本も、寒い中、そこで仕分けしなくても、とにかくこちらに持って来ても大丈夫そうである。

となると、やはり、風呂場まで積み上げた上の家の荷物を早くきれいにするしかない。母の服や雑貨を中心にもらっていただけそうな人にさし上げるものを、片端からえり分けていて、仕分けに困るわが家の数代にわたる古文書(笑)は、とりあえず、奥の部屋の押し入れの衣裳缶に押しこむことで何とか対応できそうである。本も案外書棚に収まりそうな気はするが、やむを得なければ、また国文学の本を、もらってくれそうな人に譲ったり、売れそうな本は売るしかないだろう。

そんな仕事だけでは辛気くさいので、上の家では音楽もかけ、エアコンもつけ、お茶を入れながらできるだけ楽しく祝祭のような気分であちこちのすみを、きれいに美しくしながら進めて行こうと心がけている。その間、下の家でカツジ猫はお留守番だが、エアコンはつけっぱなして、ときどき私が戻ってくるので、彼は満足しているのか、ベッドの上でいいきげんで寝こけている。

◇ところで、田舎の家も、もう人手に渡すとわかっているのだが、ものがなくなってみると、すっきりして、いかにも立派で、思わず壁にかける新しい絵を買って見たくなってる私は、本当に本当に「渚にて」症候群だ(笑)。

あ、今日は大相撲の千秋楽か。ちょっと出かける用事もあるので、カーラジオでどんな風か様子を聞いて来ようかな。

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カツジ猫