「線量計と奥の細道」を読んだ
『線量計と奥の細道』は、ずいぶん前に買って放りっぱなしにしていた本だ。多分、自分の専門にしている江戸紀行の関係文献だから買っとかないとと思ったのだろう。そういう本だと、その内に読もうと置いたままになることが多い。今回ふと思い立ってあらためて読み始めたら、ちょっと驚いた。これはかなりはっきりと、福島の原発事故を意識し、その被害や実情を無視しておおいかくそうとする動きに、明確に抗議し、反発して、忘れまい、記憶しよう、発信しようという意図のもとに綴られている本なのだ。ちょっと小林エリカ『空爆の日に会いましょう』を思い出した。あの本と共通する厳しい熱気のようなものが、作者を推し進め、読者にせまって来る。
とは言っても『空爆の日に会いましょう』に漂っていた、孤独でとぎすまされた切迫感は、たしかにあるのだが、もっとたくさんの要素が加わって、読み物としての体裁をより整え、一見わかりやすくもある。「奥の細道」という古典の現地調査、自転車旅行という冒険、線量計で行く先々の放射能汚染を測り続けるという試み、だがそれが復興をめざす人々への裏切りではないか、自分のこのような旅は許されるのかという問いかけ、旅先で出会うたくさんの人々の、地震や原発事故の実態の生々しく力強い証言の数々。そんなたくさんの要素が入り乱れ、からみあい、現実そのもののような複雑さが積み上がる。わかりやすい、読みやすい語り口のようで、一口に言えない、片づけられない内容が、安易な共感や理解をはばむ。
Amazonの感想のコメントの中には「よくわからなかった」というものもあった。だがそれこそが、この本が描こうとした現実なのだ。それは実は古今東西を問わず、紀行という形式の持つ、自由さ、枠のなさ、とりとめのなさ、雑多さ、なのでもある。その点で、これは、非常に紀行というジャンルの特徴を示した名作である。また、被災地の悲惨や絶望を告発するとともに、そこに生き続ける土地と自然と人々に対する支援と共感と愛情を注ぐという、観察者、訪問者、傍観者のあるべき姿を求め続ける、血の通った、人間としてのすぐれた文学でもある。
ホークスの和田投手が引退するそうで、ネットやニュースで話題になっている。もうあまりにも長く活躍した人だから、プロ野球を見るようになって日の浅い私は、最盛期の華やかさは知らない。ただ、一番印象に残っているのは、千賀投手が1000奪三振ボードに、チームメイトの書き込みをしてもらおうとしてる動画に登場していた姿である。この動画はとても面白くて、甲斐捕手の愛すべきまじめさやら、柳田選手のつくろわない華やかさやら、笠谷投手のいじらしさやら、栗原選手のかわいらしい生意気さやら、中村選手の落ち着いた慎重さやら、松田選手の松田選手らしさ(笑)やら、周東選手と川瀬選手の今では想像できないエラーの多さのいじけぶりやら、突然登場してとけこみまくる工藤監督やら、森投手、嘉弥真投手、川島選手など今はいないメンバーの姿やら、何度見ても飽きないのだが、その中で和田投手は、(1)「和田さんが最初に書いてくれたから」と感謝する千賀投手に「いや、石川柊太が最初だよ」とずっと言っている、(2)「自分のときも、こんなのがほしかったなあ。造花の花束しかなかった」と、くりかえしぐちる、の二つで、真面目でてらいのない人柄が、ほおえましくにじみ出ていた。誰かが思い出して紹介しそうな気もするが、ぜひ見てほしいからリンクしとくか。