「阪急電車」の悪口(6)。
それと関連して、最初に小説読んだとき、あれーっとすごい違和感ていうか、逆に新鮮でさえあったのは、この婚約破棄の乗りかえ結婚が、会社の皆に祝福されず、上司も同僚も、皆、翔子に同情的で味方してるっぽくて、それを翔子が不愉快でもなく、むしろ受け入れて、利用してるっていう感じに描かれてたことだった。
マジでもう、信じられず、すごいと思った。二重の意味で。
ひとつは、えー、こういう時にこんな風に同情され味方になられるのって、逆にプライド傷つけられて、すっごく不愉快じゃないの!?ってことだった。まあ普通の小説やドラマなら、そう描くだろうし、私もそう感じるだろうけど、この小説はそうじゃないのが、へー、今の人は翔子さんみたいな人でも、こういう同情、ありがたく受け入れて恋人と後輩を苦しめるのに利用するんだ、って驚きだった。
私なら、最低でも「うるさい、おまえら手を出すな。これは私ら三人の問題だ。他人にわかるこっちゃない」という感情を持つ。
実は、このことも私は翔子の彼への愛が、どういうものか、どの程度のものか、判断できない理由のひとつだ。自分が深く愛した人が、明らかに自分よりつまらん相手にのりかえたとき、自分でもその理由がわからず現実が受け入れられないとき、周囲が何らかの評価を下して関わってくるのは、私ならがまんできない。
第一彼にひょっとまだ少しでも未練があるなら、そうやって、皆に攻撃され冷たい目を向けられることで、彼らが孤立し結びつきが強まることも不愉快でならない。それを皆といっしょになって、余裕で二人を苦しめていられるというのは、ホタテガイやアルパカの愛しかたや恋しかたが理解できないと同じぐらい、私には理解するのがむずかしい。
もうひとつ、いくら何でもヤバくねーかと心配したのは、どう見てもどう読んでも、翔子さんは上司や同僚の、自分への同情や新カップルへの反感に、なぐさめられ力づけられ励まされ、行動をおこす心の支えにしてるとしか見えない(「非はあちらにある」「私の方が人から見ても、まっとうなんだ」という証明にしてるという意味で)ことだ。
そんなのは、いくら何でも甘いでしょ。こういう時に、周囲の反応なんて、いったいどんだけ頼りにできるの?
どうも翔子は、後輩と比べて、自分ができる女で、皆からの信頼もあつくて好かれてて、圧倒的に人望があると、ものすごく確信してるみたいなんだけど、すごいなあ。私はその確信ぶりだけからしても、こんな女とは、あんまりつきあいたくないと思うし、その判断のゆるさというか甘さというかを見るだけでも、できる女とは到底思えない。
特に、仕事の方面ならまだしも、男女関係についちゃ、他人は何も判断できない。一人がふられて、別の一人とくっついたなんてややこしい状況で、そう簡単に誰が悪いのどっちが悪いのなんか決められない。
それでも皆が聞き取り調査もしたわけじゃなく、結果だけ見て翔子の側について味方になる、この会社の将来も私はたいがい心配だ。私も相当しょーもない職場を転々としたが、どこだって、そんな不用心な人たちのいた職場はなかったぞ。
考えられるのは、だから、翔子の前では皆が翔子に同情的だが、新カップルの前ではその反対という図式で、翔子はその可能性にまったく思いいたってない。大丈夫か、女としてのみならず、職業人としても、そんなことで。
それとも、最近の小中高でのいじめとやらみたいに、ろくな調査も情報もないまま、皆がどっと一方に流れて、翔子なら翔子の味方になり、相手をひたすら悪者にしてしまうってことも、現実には多いんだろうか。職場でも、地域でも。マスメディアがワイドショーでよくやるみたいに。昔は野村監督の奥さんとか。最近は菅首相とか。正気の沙汰じゃないほど、ともかく、その人を悪人として、すべてを枠にはめて表現する、あのやり方。
それはそれで、うんざりするなんてもんじゃないが、しかし、だったら、そういう評価や枠組みは、何かのはずみで180度ひっくりかえる可能性もまた大いにある。そういう枠組みで保護されるのも、人間としていやに決まってるが、まさにいじめがそうなように、ある日突然まっさかさまに、今度はこっちが悪者になって、あらゆる攻撃を受けるのだ。