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『大才子・小津久足』感想(24)

【クリーニング店の地下】

まあ、こうやって書いていると、私の生きる中心はやはり、創作というか空想というか妄想にあることを再確認するわけですが、私は先に述べたように、小さいころからその空想の内容を家族に話したことは一度もないし、学校での友人ともまったく話題にしたことはありません。何しろわが家では母の方がミーハーで、好きな歌手や感動したドラマの話を、浴びるように私に浴びせていて、私はむしろ聞き役でした。学校の友人たちとはそれこそ、のべつまくなしに一日中おしゃべりをしまくっていましたが、それは自分の空想や妄想以外のことばかりでした。

それらの空想のほとんどは、読んだ小説や見た映画の続編や二次創作でした。読むことは常に私にとって、パラレルワールドのもうひとつの小説を書くことでもありました。私はそれを誰かと共有しようとも、したいとも全然考えていなかった。淋しくも空しくもちっともなかった。家族や友人は大好きでしたが、彼らとの関係を安定させ、愉快なものにしておくのは、あくまでも後顧の憂いなく孤独な時間の空想や妄想に集中できるようにするためで、成績の上位を保つのも優等生でいるのも、すべて、そのためでしかありませんでした。

そういう人生をずっと続けていて、別に不満も不快もなく、私は大変幸福でした。ただ、ときどき困ったのは、私にとっては孤独で自由でにぎやかな時間を確保するためだけの、成績のよさとか人気とか、そういうものに意地悪ではなく、きわめて健康でまっとうなライバル意識を抱いて、目標にしようとする人がときどき現れることでした。これが本当に困ったのは、相手は全力投球で多分人生かけてやっているのに、私はあくまで一番自分の好きなことをするためのカムフラージュでしかない戦力で対応しなければならないことでした。はっきりした意識でもなく、いつからか私は自分だけが片肺飛行で戦闘機飛ばして戦ってるなあと思うようになっていました。多分、正しい実感でした。だってほぼ毎日いつも、二重生活か三重生活かしていたようなもんでしたから。

そもそも、だから私はライバルとか好敵手とか一方的に宣言されて対決をせまられるのが大嫌いです。映画「グラディエーター」のバカ皇帝に底なしの嫌悪感を抱き、主人公に肩入れしてしまったのも、きっとその余波でしょう(笑)。
 私はもともと公平な対決や試合は、この世にひとつもないと思っています。絶対的な判定があると信じて、それを心のよりどころにして、自分を確認する人間なんてはた迷惑な以外の何者でもありません。その程度の評価基準しか持てない者の自己満足のために利用されるのなんて、まっぴらごめんなのですが、しばしばそういう挑戦を受けるのが実にうっとうしいです。

特にこれが困るのは、たとえば「巨人の星」の飛雄馬が、貧困家庭で弟妹を養う左門豊作に「恵まれている自分」が対決することの理不尽さを感じて、ライバル意識を燃やせないように、相手の不利が目に見えるものであったら、まだいいのです。
 私の場合、成績の良さも周囲の人気も、あくまでもカムフラージュにすぎず、本来の自分の正体を隠すためにあるわけですから、一方的に対決の場に引っ張り出されて注目されるのは、勝敗以前にそのこと自体が実にただもう迷惑で、危険きわまりないわけです。

前に何度か書きましたけど、昔「0011ナポレオン・ソロ」という、のどかなスパイ物の海外ドラマがありましてね、私は大ファンでしたけど、彼らの属する正義の組織はニューヨークの町の一角の、クリーニング店の地下にあるわけです。それでですね、私のライバルになりたがる人たちというのは、言ってみれば、その広大な地下組織のことは知らぬまま、新規開店のクリーニング屋として、何の疑いもなく、クリーニング屋としての勝負や評価を求めてくるわけですよ。世の中に。こっちが注目されるのは命取りだってことも知らずに。地下組織がかくれているなんて夢にも思わず、世の中のクリーニング屋はすべて自分のとこと同じにクリーニングしかやってないと思って、勝負を挑んで来るんですよ。
 ほんっとうに、迷惑ったらないっ!

こういう体験のある人には、すぐにもおわかりかと思いますが、何でそんなのに対応して対決するんだ、そもそもおまえはそんなに将棋の名人みたく、誰からも打倒すべき目標と思われるほど優秀なのかと言われるかもしれませんが、私がいっちばん許しがたいのは、こういう「ライバルを作らないと成長できないタイプの人」って、絶対に、かなわないとわかっている最高の存在を好敵手として位置づけたりはしません。あくまで自分にも何とか手の届きそうな、そこそこの相手をライバルとして選ぶんです。そのけちくささ、計算高さ、みじめっぽさ、貧乏たらしさにも戰慄しちゃうわけですが、私は多分そういう、そこそこ勝てそうな相手として、アホなやつらの自分探しの自己確認のお相手風情にちょうどいいんですよ。そんな、いやらしい情けない相手に、こっちは片肺飛行でおつきあいしなくちゃいけない。ため息も出ようってもんです。身から出たサビと思って、お相手してますけどね。ぜひとも世の中には見えてない大組織を地下に擁しつつ、つましくクリーニング店やってる業者もいるかもしれないってこと、想像してくれませんかね。「自分の身の丈にあった」相手を探して、けちくさい挑戦で自己確認して生きるよすがにしようとする前に。

久足には、このような苦労はなかったように見えます。私のように、隠さなければならない嗜好や妄想があったようには見えません。彼が堪能した「創作の喜び」が和歌や紀行という「雅文学」に限られていたことが、その安定を生んだのでしょうか。馬琴の読本への耽溺や、いっそ自分も俗文学を書いてみようという誘惑は彼は感じなかったのでしょうか。
 馬琴の小説は、勧善懲悪とか言いますが、その実たいがいエログロ満載です。「オタク研究会覚書」で学生たちと話していた時、しばしば触れたように、彼の小説では、性交の場面に代わるものとして、病気や怪我やその治療や介抱が人間の肉体への執着や粘着という点で、その役割を果たしています。あ、拷問もか。そういった点への久足の興味や関心は、見る限りでは薄いようだし、紀行にもその反映は見られないのですが、彼は馬琴の作品のどこに、どのように惹かれたのでしょうか。そういうことについても私は知りたく思います。

【「自分隠し」の始まり】

最後に私が、この「終章」を理解するにあたって、あるいは障害となっているかもしれない、私自身の弱点について述べておく。

そもそも私は「自分探し」ならぬ「自分隠し」から、すべてをスタートさせたわけだが、その原因はわりとはっきり記憶にあって、それは中学校の図書室というよりまあ書庫のような一室で、あれこれと手当たりしだいにいろんな本をつまみぐいしていたとき、多分教師用と思われる、いくつかの本を立ち読みした体験だ。そこには、反抗的な生徒、扱いにくい生徒への対応の成功例がいろいろと記してあり、特に、そういう生徒のいろんな特徴やタイプが分析され、ラベルだかレッテルだかを貼られて、対応が呈されていた。人間を分類し、それを自分の都合のいいように作り変えていく技術を細かに説明した、その本を、私は嫌悪と反感に満たされつつ、どこか面白い資料として読んだ。

細かいことは覚えていない。ちなみに現実にその中学校にいた先生たちは、忙しいのもあったろうし、そんな教育法を生徒に対して実践や実験をしている人は、多分ひとりもいなかった。普通に生徒を指導し、素朴に怒ったりかわいがったりしていて、今思い出しても私には何の不快感もない。
 ただ、それらの指導書の印象は強烈だった。おおかたに目を通したあとで、ひとりでに私の心に生まれて根付いた目的意識は、ずばり、こんな連中の言いなりに分析や定義や改造されてなるものかということだった。私は、こんな連中に私を絶対に理解させたりはしない。分析も指導もされるようなへまはしない。そう決意した。

そのためには、まずは自分自身が他の誰よりも厳しく自分を点検し、把握し、理解しておかなければならないと感じた。その一方で、他者から見抜かれないために、このような本に書かれたどんなタイプの子どもにもあてはまらない性格にならなくてはいけないと判断し、それを実行した。優等生だが、反抗的。しかし、感情的ではなく、攻撃的でもない。明るくて、友人も多いが、無理をして自分を隠している様子はまったくない。我慢強いが気まぐれ。大胆だが、慎重。相手や周囲をどう思っているかまったくわからない。無責任なようで、かげでいいことをする。皆に好かれるが、決まった友だちもちゃんといる。要するに何を考えているか、何をするか、まったく予想がつかないし、あらゆるマニュアルが通用しない。そういう子どもになることをめざして日夜努力した。

付け焼き刃で作為的に演技していると、化けの皮がはがれるから、私はそれらの全性格を本気で身につけるようにしていた。自分で自分を暗示にかけたりもしていた。後に友人たちと発刊した鳩時計文庫の小説「ユサイアの子ら」の318ページの「あとがきに代えて」で掲げた性格が、その基本となっていただろう。

誰にも分析されまい、定義されまい、既存のレッテルを貼りつけられて分類されるような人間にだけは断じてなるまい。それは私のモットーだった。それはまた当然、他者や周囲のすべてに対して、自分がそうすることを禁じるということでもあった。その中学校の書庫で決意したことを、私は今でもおそらくかなり忠実に守り通している。(進歩がないとも言う。)

ただそれが、自分の弱点や限界となっているだろうことも知っている。私自身であれ、私の作品であれ、既存のラベルを貼りつけて、その枠内で理解しようとする人の批評のほとんどすべての内容を、私はよく理解できない。何を言われているのかが、ほとんどまったくわからない。その人が私について、何を言おうとしているのかが、つかめない。「この人はどうやら黒いゴキブリらしい」「この作品には塩昆布と冥王星の味がする」とか言われていると同じぐらい、何のイメージも伝わらない。本当です(笑)。

「あの人はフェミニスト」「この人は差別主義者」といったことばも、私にはほとんど何の参考にもならない。フェミニストでも嫌いな人はいるだろうし、差別主義者でも仲よくなれる人はいる気がする。もっとちがった説明や描写をもらえないと、私の脳髄は反応しない。心はもちろん。

そりゃ私みたいに、江戸時代の特徴を語るのに「ぬれぎぬ好き」だの「理屈っぽい」だのという大ざっぱなことばでしか表現しないのもいいか悪いかよくわからないが、あらゆるレッテル、ラベルで分類され箱や引き出しに放り込まれることを拒絶するのを生きる基本として来た人間としては、どんなにちっさいラベルでも、何らかの用語をはりつけられたとたんに、反射的に「臆病者!」「怠け者!」という罵声しか唇から出て来ない。そのくらい本能的な拒絶反応がある。チョークで背中に番号を書かれ、腕に数字を入れ墨されたような屈辱しか感じない。相手によっては、おまえの最新のお勉強の成果を見せびらかす材料にされたかねえよとまで毒づきたくなる。

菱岡君は構築主義にしろ分人主義にしろ、誰にもわかるように、きちんと説明した上で、おそらくは的確に使っている。しかし私には、それが、「おそらくは」という以上に理解できない。こういった用語を出されると、もう私の思考は理解しようとすることを放棄してしまうのだ。これは私の欠点だし、今後は変えて行かなくてはならないと思っているが、スズメ百まで踊り忘れず、トラの縞は洗っても落ちないってやつで、死ぬまでに間に合うのかしらん。まあ、それはあくまで私の問題である。

さて、かなり予定が遅れておりますが、次回からは、この本の感想の最後、「紀行について」です。というか、菱岡氏を基調講演の講師とした催しが22日にあるそうなので(オンラインですが申込みはもう締め切られました←ごめんごめん、まだでした! 締切は月曜日です。皆さんどうぞお申込みを!!)、それに向けて、江戸紀行の今後の展望や課題について、私なりのまとめを書いてみておきたいのです。本当にぎりぎりになってしまいましたが、せいぜい、がんばってみますので。

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カツジ猫