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『大才子・小津久足』感想(23)

【三分冊日記の時代】

中学一年生の時、田舎の大きな古い家の二階にあった、窓も何もない暗い九畳の部屋を自分の部屋にすることにして、その時日記をつけはじめました。以後七十六歳の現在まで、飛び飛びの細々ではありますが、ずっと日記をつけ続けています。

大学時代かその後の一時期の数年間、「三分冊日記」という形式をとっていました。なぜあんなノートがあったのかは今もわかりませんが、切り分けて使えるようにしていたのか、途中で分けられるようになっていたノートがあったのです。私はそれを、同一の時期、三つの項目に分けて同時進行で使うようにしていました。

今、その各部分の見出しを見ると、「国文」「創作」「生活」になっています。つまり、自分の生活の中のこの三要素が同時進行して同じ量の仕事をするように、私はバランスをとろうとしていたのでしょう。

これに限らず、とぎれとぎれにでもつけ続けていた日記をのぞくと、高校生から大学、就職後、現在とどの時期もほとんど変わり映えがしないので、自分で笑ってしまいます。予定に追いまくられ計画を立てまくり、しょうもないことにうつつを抜かして熱中し…のくり返しで、人間関係も天下国家の記事もありますが、基本はほぼゆらいでいません。

ただ、「教育」つまり授業や学生との交流、また家族関係、友人関係などの記事がどこに入るかは、やや乱れたり入り混じったりはありますが、そんなに混乱はしていません。

久足風にあてはめると、おそらく「国文」の部は論文書きや資料収集に特化されており、ほとんど他の記事がまじりません。これは大学以来ずっと久足の「干鰯問屋」の経営にあたる部分だったと思われます。というか一目瞭然です。私にとっての生活の基盤、飯の種。他の面の情熱や娯楽を支えるもの。それ以上ではないし、それ以下でもない。研究に情熱を燃やしたり生きがいを見出したりするということは私にはなかったのです。

むしろ、私の生き方の中心は「創作」の部だったのでしょう。人に見せたり発表したりすることは、高校生時代の終盤や大学生になってから以降は少しはあったけれど、基本的には自分個人の妄想、空想、精神的マスターベーションでした。読書も結局は、それを豊かにするものでしかなかった。今でもそうですが、人に見せたり公開したりする創作よりは、誰にも見せずに破棄するもの、あてもなく保管している作品の方が私はずっと多いです。

友人たちとの交流や、自費出版でしばしば公開したこともありました。でもその場合私はいつも、世間にそのまま受け入れられないように何かしらの制約を自らかけていた気がします。大学院のころは、わざとのようにジュニア雑誌に、それもかなり毛色の異なる外国風の作品を投稿したり掲載してもらったりしていました。もっと文芸誌的なちゃんとした方面に挑戦しようとかはまったく考えませんでした。

その後、ネットで小説を発表していたときも、かなり普通に受け入れられる内容でも、必ず著作権の問題に触れて出版や発表はできないような題材をあえて選んでいました。つまり世間でメジャーになる要素を自分からどこかで常に排除していました。出版社や世間に認められ評価されない形式をいつも選んで来たと思います。まあ、あえて言うなら久足が写本でしか自作を公開しようとしなかった心境とも、どっかで重なるのかな(笑)。

「生活」の部は、「国文」とは反対の面から私の「創作」を支える要素としてありました。経済的にも社会的にも、まともな暮らしをしていること、結婚も子育てもしないかわりに、それで手薄になる人間としての実生活をきちんと運営していくこと。隣人や職場でのつきあい、家やペットの管理などなど。私は大学に行くまで、当時の男性の大半と同じく、まったく家事などしなかったので、料理洗濯掃除などを、すべて一から学んで身につけなくてはならなかったし、洋服なども名古屋に就職して九州を離れるまでは、すべて叔母が買ったものを着ていたので、衣類を自分で買ったのも三十代になってからではなかったでしょうか。そういう方面での訓練も必要でした。

この三つの方面を、すべて同じ量でノートの記事をふやして行くこと、どれかが少なくならないようにすること、それが私なりの充実した生活のためのバランスでした。「創作」が生きていることの中心だったとは言え、だからこそ私はそれで収入を得ようとか名声を得ようとかは考えなかった。むしろそれは禁じていました。あくまで私の個人的でひそやかな趣味でした。それを支えるために「国文」と「生活」がありました。

【総合ノートの時代】

その形式のノートが販売されなくなったこともありましたが、やがて私はかなりはっきり意識して、小型のノート一冊にすべてを記するようになり「総合ノート」と名づけました。以後おそらく数十年、その形式が続いています。「国文」「創作」「生活」の三つを意識して区別する必要を私はもう感じていません。わりと自然にそれらを統合して暮らしています。

この間に、私の生活には、いささかの変化もありました。
ひとつは、祖父母や叔父叔母、母の世代が亡くなって、田舎の家の処分などが主に私の仕事になった結果、板坂家の古くからの書類や品物を、親戚と相談しつつ、処分しなくてはならなくなったこと。家族や家というものについて、判断や決定をする仕事が否応なしに増えました。

自治会活動や組合活動、さらに「むなかた九条の会」代表を受け継いだことから、政治的社会的な会合その他に大きく時間をさかれるようになりました。これはもともとずっと私の生活のごく一部ではあったものですが、時間的にその比重がかなり大きくなりました。次の世代に引き継ぐことも視野に入れつつ、日本の政治の動きもあって、この方面の仕事は増える一方でした。
 ただこれは、常に一度も私の人生の目的や生きがいであったことはありません。そういう意味では同じ活動をしている仲間の方々との意識は多分大きくちがっていたと思います。

学生との交流や指導や授業については、私は常に「生活」の部類に入れていました。いわば人間としてのふれあいやぶつかりあいを学ぶ場所として位置づけていました。「国文」や「創作」と関わらせて考えたことはありません。私にとっては子育てに代わる訓練の場ではあったとしても、それに入れあげる気はまったくなく、教育熱心な先生に、「学生との交流や教育を人生の生きがいにするなんて、彼らは盆栽じゃあるまいし」、などと、天を恐れぬ暴言を吐いていました。彼らとのつきあいは限りなく楽しく勉強になり、私をまともにもしてくれたと思って感謝していますけれど、なつかしいとかいう感情は正直ちっともありません。

ただ、最近の私は、どこかのいつかの日記で「水門を開こうか」と書いたことがあります。それはつまり、創作や研究や学生との交流や授業で、別々に発展させて来たものを、自費出版の授業用のテキストとして合体させることで、自分の空想や哲学や研究や知識といったものを、授業の場で学生に伝えられるのではないかという、予感であり、心のうごめきでした。

私立大学でまったく文学に関心も興味もない学生たちに大教室で、眠らせないよう教えていたころから、「国文学概論」「国文学史」の、自分なりのテキストを作ってみたいというのは、ずっと私の夢でした。そのための資料もコピーで毎年新しく作っては加えていました。私は外国文学、映画、コミック、などといった雑学にうつつを抜かして来ましたし、最低の最前線の国文学の知識もいつも身につけるようにして来ました。それらを統合して、わかりやすく、学生にも一般の方にも説明できる読み物を作ることは、多分私に一番向いているのではないかと思うようになったのです。

「金時計文庫」シリーズは、そうやって生まれました。私は学生や一般の方とのおしゃべりや交流は大好きですが、やはり授業で知識を伝えるのが、一番楽しいし気楽です。人生論や政治論も悪くないけど、あくまで、それからの派生として語る方が安らげます。

というわけで、ここ十年、私の生活の要素には、「板坂家」「九条の会」「金時計文庫」が加わって来ました。残された人生、これらの仕事をどう割り振るかが、現在の私の課題です。

【いたさかランドの世界】

もうおわかりかもしれませんが、この「いたさかランド」も、その模索の中で作られました。
 「研究の沼」は、かつての「国文」の部を、ほぼそのまま引き継いでいるし、「空想の森」は、かつての「創作」の部の、ひと目にふれてかまわないものだけを公開しています。もっとヤバい内容のものは、書いたそばから破棄するので、どこにも多分残りません(笑)。

「朝の浜辺」は、これまた久足になぞらえれば「雑学庵」めいた分野でしょうか。授業ノートやカルチャーセンターノートなど、「金時計文庫」につながる内容のものが網羅されています。「川っぷちの小屋」は言うまでもなく「九条の会」関係を中心とした、政治的社会的メッセージのいろいろです。

【我ながら無茶ぶりな挑戦】

私は研究者にしても他の方々にしても、このような分類や仕分けをどのようにされながら、生きておられるのかどうか、正直まったく知りません。
 誰も聞いてねーよと言われるのは承知で、こんな私の経歴と実態を長々と書いたのは、それこそ、こういうのが、どのくらい一般的なのか、江戸時代なのか現代なのか、日本なのか西欧なのか、見当がつかないからです。
 久足と私は、どこまで似ているのでしょうか。どこが決定的にちがうのでしょうか。考えれば考えるほど私にはわかりません。久足の書いたものや経歴を細かくたどって検証すれば、私が上で述べたのに近い、こういう流れが何がしか浮かび上がらないですかねえ。あまりにも無茶ぶりというものでしょうか、菱岡君(笑)。

【さらにつけ加える、いくつかのこと】

ちなみに私は、これらの活動について、まったく仮名やペンネームを用いませんでした。資料調査をしているときに、紀行作者たちのいろんな号に悩まされてうんざりして、私は全部同じ名で通すぞ~という、ずぼらな決意をしたぐらいしか、特に理由はありませんが、しいて言うなら、すべて本名でも、見抜かれてたまるかという気分も、どこかにあったのかもしれません。(なお、ネットでは一時期「じゅうばこ」「キャラママ」「ゆきうさぎ」の三つの名を使い分けていますが、これはその時々の都合で適当に使われていて、さほど実態と連動しているという印象はありません。)

私はだいたい、「本当の自分」なんぞというものは、知りたくもなく、探す気になどなったこともなく、そもそも分人主義どころか、誰の前でも本性も本心も見せない生き方を普通にしているので、時たま、大昔に、「本当のあんたが、どこにいるのかわからなくなって、ぞっとする」と言われたこともありますし(その彼女とはいまだに親友で、彼女が死んだら、あたりちらして本音を言える人がいなくなって困るなあと思っています)、サマセット・モームの『劇場』で息子から同じことを言われて動揺する大女優ジューリアは今でも私の大好きなキャラです(私は動揺なんかしませんが)。

かつて私が出版してもらったジュニア小説『かげりゆく光の中で』をどっかで見つけた出版社の社長さんが「板坂さんの恥ずかしいものを見つけてしまった」と若い社員にそれを見せて喜んだという話を聞いたとき、私は最初何を言われているのかまったくわからず、わかった後では、この社長さんと同じ感覚で本づくりができるのだろうかと、真剣に不安を抱きました。仮にも本名で公開するような小説を、ジュニア小説だろうがポルノ小説だろうが、私がかけらも恥ずかしいと思ったりするわけないじゃないですか。つくづくもう、アホかいな。

私は自分の空想や創作のすべてが、マスターベーションとひとしく恥ずかしいものという意識が常にありました。初めて創作に近いことをしたのは、中学の時の漢字を百字一日に書く練習帳で、そこで「花束」「浮橋」「古城」「湖」「剣士」「死刑」「十字架」「傷跡」「殺人」「子羊」「海賊船」などなどの漢字を書いては、どきどきして顔を赤くしていました。あとは、授業のときに、教科書のページの余白にずっと小説や空想を書き続けていて、授業が終わるまでに全部消しゴムで消していましたから、私の教科書は皆、ページの両端が薄くなって透き通りかけていました。

好きなものでも、好きな人でも、それを誰かに知られるのが恐かったし、絶対にいやでした。それをすべての人から隠すことから、私の「自分探し」ならぬ「自分隠し」が始まって、それはいまだにゆらいだことはありません。そんな私が、仮にも本名で公開しているものを、恥ずかしいだの若気の至りだのと思うわけがない。ふざけんなと言うしかないです。

「鳩時計文庫」の「青い地平線」のまえがきにも書いていたと思いますが、私は特に小説ですが、他の文章でも何かを書くと、ただちにそこから変化しよう逃走しよう発展しようと心がけます。言いかえれば、私の書いたものに読んだ人が感動して「私と同じだ」だの「死ぬまでついて行きたい」と思った時点で、私はもうそこにいなくて、源氏物語の空蝉もどきに、空の衣だけを読者の手に残して次の場所に行っていたい。射撃をしたと同じ場所にとどまっているバカなスナイパーになんかなりたくはない。何かを告白し、何かを露出したら、即座にその場から去る。これが私のものを書く上でのモットーで、だから私の書いたもので私を分析したり知ろうとしたりする人ほど、私が哀れむ人はいない。

書いたことや指摘したこと、訴えたことは真剣に読んでほしいし、受けとめてほしいし、出来たらそれで、自分の人生を変えてほしい。だけど、そういうのはそっちのけで、書いた私に興味を持ち、どんな人間か探ろう知ろうとするやつほど、私がさげすむ読者はいない。
 昔、それこそ中学のころか、その心境を当時流行っていた雪村いづみの「娘サンドウィッチマン」という歌に託して日記に書いたのを覚えています。「皆さん私を見るよりは読んで下さいプラカード」ってフレーズがツボでした。

私は自分の調べたこと、考えたこと、つきとめたことが、世の中に残ればいいし、人の役に立ってくれたらいいなと思っています。さしあたり、江戸紀行についてのいろんな事実とか、わかったこととか、わからないこととか。
 でも、私個人については、覚えていてほしくもないし、しのんでほしくも語ってほしくもありません。そんなの誰にもわかるわけないやん、と思います。知ってほしいとも思いません。私が世間に公開してる顔なんて、多分実際の十分の一もない。それを知らない人たちが私について語るべきじゃない(そこまで言うか)。

一方で、それじゃあんまり淋しいと思う人や、わけわからないと途方にくれる人のために、具体的にはわかりやすい人間でいたい、ちゃんと説明できる生き方をしておきたいとは思います。あんまり変な解釈をされるのも、まあいいけど、人類にとって時間の無駄とも思うから。私のそういう意識については、小説「ユサイアの子ら」の中の「石だたみ」のソリスのことば、「吉野の雪」の義経のことばなどで、めちゃくちゃわかりやすく説明しちゃってるので、おひまな方はごらん下さい。ついでに言うなら昨今の日本共産党の除名問題でもそうで、あんなの昔から共産党はそうだったし、今さら何を期待してるんだだから好きなんだ私はとしか思えない(笑)。どさくさまぎれに何言ってるんだと言われそうですが、これが私の感覚です。

【レッテルとクリーニング屋】

あんまり長くなったので、あとふたつだけ、あわただしくつけ加えます。というか、これは次回に回すかな。きっと次回がすごく短くなるとは思いますが、そこはご容赦を(笑)。

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カツジ猫