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あまりにも救いようがない状況。

◇紹介しようと思っていてなかなかできないでいたのだが、少し前からこちらのツイログで、マタニティハラスメントとか、妊娠中や子連れの女性に対する異常なまでの社会の攻撃が話題になっている。

http://twilog.org/Kumiko_meru

新宿駅で「スマホを見ながら歩いているお母さん、子どもを大切に」とか、気が利いたつもりらしいくだらんアナウンスがあったりとか、少子化がいかんとか言う割りには、子どもを生み育てる女性に対して、まったく社会も国もやさしくない状況が、読んでいるとよくわかる。

全面的に共感するし、紹介されている実例がほんとなら(もちろんほんとだろう)、たとえば電車の中で妊娠中の女性を面罵する男性とか、どう考えても国ごと末期症状だろうと暗澹たる気分になる。

◇ただ、前にも書いたかもしれないが、こういう話を聞くたびに複雑というより不思議な気持ちになってしまうのは、いったいいつからこうなったのだろう?ということだ。

ずっと前から思い出そうとしては、まだらボケかなんかでどうしても思い出せないのは、まだ私が若くて多分20代か30代前半、ということは30ないし40年前、女性の同年輩の友人と二人で、デパートで買い物をして満員のエレベーターに乗ってた時のことだ。

って、さてこれからが、思い出せない(笑)。
どこかの階で子どもを抱くかベビーカーに乗せるかした若い母親が乗って来たのかどうしたのか、もう完全にわからないのだが、とにかく覚えているのは、エレベーターを降りた後、しばらく歩いて友人と二人が異口同音に口を開いて、「あれはひどいねー」と言い合ったことだ。二人は、いろんなこと、特に日常的なことではまったくセンスやポリシーがちがっていて、普通こういう時はどっちかがそういうこと言うと、「そう?」「でもね」「いやそれは」と絶対片方が反論するのに、その時はそうでなかった、だから覚えているのだろう。

その母親も子どもも何ら非常識な迷惑なことをしたのでもなかった。
ただ、私たちが二人とも怒り、私が今でも覚えているのは、その女性の「私のためにあなた方皆が犠牲になるのはあたりまえでしょ」という強烈なオーラだった。
ひょっとしたら、その母子を乗せるのに、誰かがエレベーターから降りたのだったかもしれない。そうする前に「誰が犠牲になる?」みたいな、一瞬の緊張がドアが開いた時にあったのかもしれない。
その母親は、一歩も譲る気配がなく、「私が優遇されるのは当然」というものすごい表情や態度をしていた。疲れて、子どもを守るために必死、という感じではなかった。子を持つ母親には対抗できない、という世間の常識に「安住」ということばがあるなら、まさにそれだという様子だった。

これまた変に鮮やかに覚えているのは、私と友人がその時言い合った「あんなことしてたらさ」ということばだ。「あんなことしてたらさ」と私たちは言った。「いくら何でもその内通用しなくなるよ。子連れの母親のこと、皆が絶対もう気にかけるのやめるようになるよ。だって、きりがないもん。ほどってもんがあるもんね」とか。
その腹立ちまぎれの予言が、実現するなんて二人とも思ってなかった。でも実現しないとも多分思っていなかった。

◇私はそれまで、大学や職場で、先輩後輩の女性で、既婚未婚、子どもがいる人いない人の双方から、ものすごくいろいろな愚痴や怒りを聞かされて来た。聞いて眠れなくなるほどの深刻な怒りもよくあった。「君はご主人がいて経済的にも恵まれてるから」と成績はよかったのに奨学金を独身の友だちに譲らされたとか、「君は独身で時間があるだろうから」と超多忙な組合の役員を押しつけられたとかいうのは、すっごく軽い方の部類に属する恨みつらみである。

悪気じゃないしわかってないからではあるが、そういう怒りを生むのはまさに男性社会の男性たちの発言や行動だし、それで対立し憎悪しあうなどバカげているとはわかっていた。私自身、自分の論文を「これでも女性かと思う鋭さ」とほめてくれた男性から「基本的に主婦の学問は信用してない」と言われたとき、「あっそ、どーせどっかでは『結婚してない女の学問は信用してない』と言ってるんだろうな」と思うぐらいの、血のめぐりは常にあった。それでも油断していればそうやって、女どうしは対立させられかねなかった。だからこそ私は、結婚している人、子どもを持つ人に対して、絶対に支持することにしていたと思う。
その私でも、その時の母親の様子には、「安住」「鈍感」「押しの強さ」しか感じなかった。

◇あの女性は今どうしているのだろう。もしかしたら、案外「今の母親は」とか平気で若いお母さんを批判しているのかもしれない。まあどうでもいいが。真剣にどーでもいいが。

今、街や交通機関その他のすべてで、もちろん職場でもどこでも、あの時の母親のような感じを与える人は見たことがないし、お母さんたちも子どもも、その存在をいても感じられないほど、つつましくて控えめだ。むしろ高齢者の私たちの方が油断してると、いたわられかねない。これだって、いつまで続くかわからないが。

思えば、私が若いころ、一時期「ああ、厳しいなあ」と微妙にちょっと思っていたのは、優秀な女性たちで結婚子育てを選んだ人たちの、いろんな場所でその生き方を見せびらかして人に承認を求めるポーズだった。独身の女性たちが一番怒っていたのも、そういう行動や態度のいろいろだった。「(赤ん坊が)論文の代わりになると思ってるんですかね」と冷笑していた人もいる。
それは、ただでさえ男女差別の激しかった中、研究や仕事を中断させられ、あせりの中で夢中になってやっていた自分の生き方の確認だったのだろうと、それも今ではよくわかる。少しずつだが、いろんな状況が変化して行く中で、そういう「ああ、痛いなあ」と思わせる人や、場面は消えて行った。

あのエレベーターの女性もそうだったのかもしれない。男性社会で人間らしく生き抜いて行くために「母と子どもは絶対に大切」という、男性社会を支える一部を使わなくてはならない状況。
そして、それが無条件に受け入れられない、微妙に緊張したあの時の雰囲気と感覚は、考えて見ると、あの時期は今の事態へつながって行く、過渡期か分水嶺だったのかもしれない。

◇今ベビーカーが電車やバスの中で邪魔にされるとか攻撃されるとか、あらゆる場所で子どもと母親が冷遇されるとか聞いて、私は皮肉もブラックユーモアもてんこ盛りにして、「何とまあいい時代になったものだ」と思うほど、すべては隔世の
感がある。どうしてこうなったかというのには、もちろん石原都知事や橋下市長やアベ首相をはじめとした指導者の体現する文化や感覚を筆頭に、さまざまな理由があるだろう。しかし、あのエレベーターの女性が私と友人、多分周囲の人々に与えたような反発も、積もり積もって何かの役割をはたしているのだとすれば、それはもういろいろと、あらゆる点で、あまりにも救いがない。女性にとっても男性にとっても、独身既婚すべての人々にとっても。現在にとっても未来にとっても。

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カツジ猫