あわわわわ
憲法学者の小林節氏の投稿によると、高市首相は「憲法は国家に権力を与えるものです」と氏の発言に対して回答されたそうな。まあもう十年ぐらい前のことのようだが、何でも首相は最近ご自分の過去のブログの記事などを片っぱしから削除されているようで、今はどう考えておられるのかわからない。
またまた話がすっ飛ぶが、私の家族親族には医者と教師が多い。それでどうなるかと言うと、この二つの職業に私は世間の多くの方々が抱くような無条件の信頼をあまり持たない。海外ドラマの「グッド・ワイフ」に出て来る裁判官の多くが、いや全部が、もんのすごく個性的でへんてこな人ばかりだったのは、ああ司法も政治も聖職もしょせんはヒトのすることであり、そのつもりで見守り対峙しなきゃいかんのねと体感するのに役立ったけど、それと似たようなことで、身近な存在として日夜触れていると、尊敬し信頼する面もあると同時に、欠点も弱点も偏りも限界も見えて来る。
話がもひとつ脱線すると、実はとっくに記憶の海に溺れていたことだけど、ふと思い出したのが、これももうものすごい昔、「第二の性」の著作で知られ、フェミニズムやジェンダー問題の草分けの大御所でもある思想家シモーヌ・ド・ボーヴォワールが、多分まだモノクロだったテレビに出てしゃべってた。私は特に見ようと思って見ていたわけでもなく、言いかえれば当時のテレビでは、普通にしょっちゅう、その程度の超立派な思想家や哲学者が登場していろんな話をしていたのだろう。それも思えばぞっとするほど隔世の感がある。
それはさておき、私がいいかげんに聞いていた彼女の話の中で、強烈に今も記憶に残っているのは、彼女が母性愛に関して、まあ批判的な見解の一部だったのだろうが、「女性が自分の子どもに対し、愛情を持ってるとは限らない」みたいな話の流れで、「街で見ている風景でも、母親は幼い子どもに激しく荒々しく冷たく接していて、連れている犬に対しては、甘い愛情のこもった優しい声で話しかけている」というようなことを言ったことだった。
それが現実なのか正しいのかフランスでは日本では昔は今はそうなのかどうなのかみたいなことは、その時も今も私はわからない。彼女自身は多分子どもはいなかったと思うが当時もその後も、そんなことは、この発言を理解するに当たって、私はまったく考えもしなかった。
ただ、私は「第二の性」だって、そんなに完全に理解し支持していたわけではないが、彼女のことは超がつく立派な学者とは思っていた。だから完璧で慎重で客観的で冷静なことしか言わないと漠然と考えていた。
だから、この発言は衝撃だった。反感はなく、むしろ好感と、なまなましい信頼を感じたかも知れない。「あ、そういうこと言っていいんだ、これだけの人になっても、そういう過激でとんがったことを」みたいな印象だったか。今風に言ったら「攻めてるなあ」という感じだろうか。押しも押されぬ立派な存在になっても、「第二の性」でもわかるような、圧倒的な調査や深く複雑で精確な思考を構築して、世界や社会とわたりあっていても、誠実で正確で終始一貫していても、なおかつ、ここまで荒っぽく鋭い発言をすることをいとわないし、ためらわない、その姿勢と、それを生む土壌とに、かすかな、たしかな驚嘆を感じた。思えばそれは、程度や分野の差こそあれ、これまで私が触れて来た多くの専門家や研究者のすべてに共通する要素でも、たしかにあった。真理や真実を何よりも重視し、周囲の反応は忖度しないし、まちがうことも修正も、議論も対立も、もちろん孤立も恐れない。
話がなかなか元に戻らないが(いつものことです)、もうひとつだけ。私が子どものころ、男女を問わず同性愛は、未熟さ、幼稚さ、異常さ、病気ととらえられていた。私がお手伝い産の部屋で、ときどき読ませてもらっていた、当時の女性誌、週刊誌などの人生相談、医療相談の欄では、当時は誰でも知っているような立派な医者や学者たちが、皆そろって、そういう傾向を持つ人の相談には「成長すれば治る」「専門的な治療を受けろ」との回答しかしていなかった。
小さいときから小説を読み漁って読みまくっていた私は、生き方でも愛し方でも、まったくタブーを持たず、常識を持たず、自分の好みしか最優先しなかった。思えば家庭内の会話やその他でも、それを養い育てる傾向はあったのかもしれない。祖父母と母の家族や親族は皆、適当に対立し、たがいを尊重しながらも、それぞれ自由で気ままだった。だから私は、そういう相談の回答を見ても、別に影響はされず、ただ「世間の常識はそうなんだな」とだけ思っていた。そんなのと自分がちがうのは、あたりまえだと思っていた。
ただ、男女や性や愛に関する常識や定説は、この何十年かに世界でも日本でもそれこそコペルニクス的に変わった。自分の職場やその他でもそれと関わることは多かったから、私もそれには敏感だった。その中で私が一番痛感したことのひとつは、先に述べたような人生相談の中で、同じ回答者の先生方が、こぞって「同性愛は病気ではない」「普通にある愛の形のひとつです」みたいなことを言うようになったことだ。
それはそれでいいのだが、私が何より当惑したのは、その人たちの多分誰一人として「昔は私もまちがっていました」「今は考えが変わりました」みたいな発言や声明をしないまま、私に言わせれば、たくさんの人たちの血の滲むような戦いの結果、変わった流れや世の中の動きに、ずるっと自分を合わせたようにしか見えなかったことだ。
第二次大戦の敗北のあと、日本の大人や知識人、教育者のそれまでと百八十度異なる変貌や転換に、不信や虚無を感じた子どもは多かったと言うが、私の場合は、それと似たのが、この人生コーナーの、ずるずる変化だ。大学紛争などで、あれだけ自己批判がブームだったころでも、この方面での識者の自己批判はまったくなかったと記憶する。
私の学者、医者、精神科医、の方々への不信は、その体感もある。こういった人々は、常に当事者が死に物狂いの戦いをして、現実を変えたあとに、のこのこやって来るものだと骨身に染みて実感し、今もそれはまったく変わらない。
そんなこんなで、首相の姿勢や発言行動のさまざまで、私が一番閉口するのは、とにかく人の気に入られよう、自分の本音(あるとすれば)は隠そう消そうとする、根本的な傾向である。多分今日本で一二を争うほどに忙しいお方なのだから、根本的に無理とは思うが、今この方が何よりもしなくてはならないことは、いったい自分の本当の望みは何か、めざす生き方は何なのかというようなことについて、山にこもるかどうかして、じっくりしっかり考えて見ることでしかないのではないかと真剣に思う。
それに関して、あと二つだけ、超高速でちらっと言う。最近見てるとリベラル系の方々の中でも高市さんにあきれる余り、「アベさんの方がマシだった」みたいな気分が時々見え、一般の反高市の方々のなかでは、その傾向はもっと増えるかも知れないが、私はこの点では一ミリも一厘も同意しない。アベさんと高市さんのどっちがましかと比べるなんて、脳と時間の無駄遣いです。私が長々述べたような上の傾向は、お二人はまったく同じです。
一番典型的なのは、アベさんが憲法を変えたいあまりに「この条文を変えても、今の憲法と何も変わることはありません」と最終局面では言い出したことで、これほどに、こういった人たちの本質を示すことばはありません。だったら変えなきゃいいだけの話で、このような人たちにとって、本音で訴えることと目的を達成することは、まったく別のことなんだから、相手にするのが無駄というより不可能です。これに限ったことでもないが、高市さんやアベさんは、いつも何をしたいのか、本当にまったくわからん。それを教えて教えてと、こっちにせっつかれてるようで、こよなく、しんどい。で、これやってあれやってと言うと、それはできないといやいやをする。じゃ何ができるのと聞くと、もごもご言って答えない。そうこうする内、国民はやってくれそうなことを、こっちから考えて、これならやってくれますかと言わなければならなくなっちゃう。もうね、アホラしすぎませんか、いろいろと。首をしめられるのと火あぶりにされるのと生き埋めにされるのと選ばされるのは、希望を聞かれることじゃないですよ。
あ、また長くなりそう。切り上げます。
憲法について話し合いたいって言うのは、一見いいように見えますから、わりと「まあ話し合いぐらいは」と思ったり言ったりする人もいるでしょう。値上げや生活やインフラや目の前の問題が山積のときに、特にさしせまった問題もなく国論を二分するほど長引きそうな問題に金と時間を延々かけるのなんて、家が燃えるか洪水で玄関が浸水してる時に、カーペットの色を選ぼうとカタログめくって家族会議しているぐらい、正気の沙汰とは思えないけど、何よりも問題は、話し合う相手の誠意も本心も、信用できないというか見当たらないし見つからないことですよ。子どもを医者に連れて行く、しかも夜中の急病でも何でもないとき、評判も経歴もそもそも国家資格も確かめない、そのへんの医院にかけこみますか。相手と状況ちょっとは見定めてから、そもそも自分たち、せめて自分で憲法のこと調べてから話し合おうとした方が何かと安全じゃないでしょうか。
先日の映画会でも野党や護憲政党が大敗北した直後だったからか、「まだ国民投票があります。そこで私たちの意志を示しましょう」みたいな空気がありましたが、これもちがうと思います。そもそも国民投票は、ものすごくハードルが低くて、投票総数の規定もたしかないでしょあれ。今回の選挙でもそうですが、日本国民の半数以下でも三分の一でも投票すれば成立するし、その過半数で勝敗が決まってしまう。しかも今回の選挙のように、金にあかせたじゃぶじゃぶの宣伝で、また内容のないイメージだけのテロップを山ほど流されちゃ、おのずと皆が洗脳される。これはもうかなり前から通販生活のカタログハウスが野球のパロディの名コマーシャルで何度も警告している通り。だから、国民投票に希望をつないじゃいけません。そもそも、させちゃいけません。
今回の選挙で、自民党に投票した人たちや高市ブームに乗った人たちに、絶望し、批判する声もかなり上がっているようですが、私はそれほど、そこには怒っても悲しんでもいません。あんなどさくさまぎれの選挙で、やいのやいのせかされたら、正しい判断なんて、この忙しい時に普通の人にできるはずない。高市さんを「かわいくてかわいくてしかたがない」とか言ってる女性ファンの声にもうんざりはするけど、世の中にはヘビやタランチュラを愛してやまない人だって多いのですから、人の趣味はさまざまで、私が口出すことじゃない。
ただ、せっかく推しで好きなら、その本音も目的も主張も知っても罰は当たらんと思うのです。それをあえて見せないのはタレントや人気商売なら許されるけど、政治家はやはり欠陥商品でしかないし、使い続けるのは危険です。
はあ、朝っぱらからこの長文、いったい誰が読むんでしょうね。今日は今から、ぶり大根とグリーンピースのサラダを作って、お風呂に入って、猫の命日に供える魚を買いに行って、あとまだ何かすること山ほどあったのに。
数日前に、また一泊で、温泉に行って来ました。ついでにお墓にも寄ったら、先日供えたカーネーションが、引っこ抜かれて墓の周辺にまきちらされてました。絶対カラスのしわざだわ。かたっぽの花活けのは無事だったので、今度は両方にぎゅうぎゅうにつめこんできたけど、どうなったやら。敷地のはしに、ススキが生えてたので、それもハサミで刈り込んで来ました。飼い猫が死んだので、今年はせいぜい泊りがけの墓参りにも行けそうな気がします。


