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いたずらっ子列伝・3(水の王子覚書27)

古事記では、オオクニヌシの支配するナカツクニの村が滅びたのは、タカマガハラからの侵略です。この時に最後まで抵抗したのがオオクニヌシの息子のタケミナカタで、敗北して逃亡した後、諏訪神社の神さまになっています。同じ息子のコトシロヌシ(鳥と仲が良かったらしい)は最初から抵抗せずに身を隠し、オオクニヌシも降伏して出雲の神さまになってます。(うろおぼえで書くけど、たしかこんなところ。)

私の小説「水の王子」は、これらをどこかで下敷きにしながら、めちゃくちゃ変えていますから、これで古事記や神話を覚えようなんてしないで下さいね(笑)。親しみを持っていただくには問題ありませんけれど。

その私の小説では、正義の国タカマガハラと悪の国ヨモツクニの間で、きわどくもバランスを保って平和で幸福だった、ナカツクニの村を破壊したのは、オオクニヌシの子どもキノマタでした。最初は赤ん坊で急激に成長して村を支配しようとするこの若者に、知性でも戦闘能力でもはるかにまさるナカツクニの住人が、誰も対抗も抵抗もできず、彼の増長を許した理由は、現代社会とも重なる謎ですが、私の小説では、一応それは「渚なら」の中で、オオクニヌシとタカヒコネの会話として、説明されています。ただしこれは、例によって私自身の内面の状況と重なっていますので、現代社会を理解する鍵にはあまりならないかもしれません。

それはさておき、キノマタとはいったい何だったのか。
 そして、いたずらっ子で破壊者めいたミズハとは、同じなのかちがうのか?

そこで、彼らとどこやら似ている、文学の中の「いたずらっ子」たちの考察です。

知ってる人が多いだろう「赤毛のアン」シリーズから行きますか。なお、本が今、手元にないので、人名やせりふは、すべて記憶で書いているから、まちがいがあったらすみません。

主人公のアン・シャーリー自身が、いたずらっ子というのはあたらないかもしれないが、常識破りで騒動を起こす少女であったことは否めない。とは言え、育ての親のマリラ・クスバートが後に成人したアンに、「アン、あんたはいたずらっ子じゃなかったよ。決してそんなことはなかったよ。今、私にはそれがわかったんだよ」と言っているように、彼女はそんな混乱を意図してめざしたことはない。

マリラがそのように述懐するのは、デイビー・キースとドラ・キースという双子をひきとって育てることになってからで、このデイビーが、これはもう、文句なしのいたずらっ子だ。アンと同様、うっかりや善意からの失敗もあるが、マリラのベッドにヒキガエルを入れたり、明らかに相手の反応を予測してやっているいたずらも多い。陰湿ではないが悪質とは言える。
 妹のドラは逆に文句なしの優等生だが、こちらは作者のどういう意図があったのかと首をひねりたくなるほど、作品の中で終始一貫影が薄い。どうしてドラがこれほどに精彩なく描かれたのかについては、女性の扱われ方と関連してどなたかが疑問を呈されていたのを見た記憶がある。その内容をちゃんと覚えていないし、正直私にもドラがこれだけ軽視無視された理由はわからない。

マリラとアン自身、デイビーの腕白や暴走に手を焼きながら、ドラよりも彼の方が好きなことを一度、はっきり二人だけの時に告白している。マリラはそれを理不尽なことと反省しつつも、その理由はわからないでいる。アンは、「結局私たちは自分を必要とする者を愛するようになっているのだ」と分析しており、これが言いたいためにドラが存在するのかもしれないが、それにしたって、もうちょっとドラの描きようはあったのじゃなかろか。まあ、ここまで徹底すると、いっそさわやかにも感じるが。

のちにまたアンは(多分、赴任先の一人暮らしの間に)ジェラルドとジェラルディンという双子の世話を一日、知り合いの女性から頼まれることがあって、この二人は、アンが後で「デイビーがいたずらっ子と思っていたなんて! 全然、程度がちがうわ」と考えるほど、二人ともエネルギッシュでただひたすらもう、悪魔のようにいたずらをする。近所のおとなしい女の子をいじめて泣かせ、ありとあらゆる方法で周囲を破壊しまくる。ただし、二人はとことん仲がいいし、アンのことも大好きである。母親は二人を溺愛していて、愛らしい憎めない善意の人でもあり、アンはさすがに双子を引き渡す時に、彼女に冷ややかな態度もとるが、結局彼女を愛さずにはいられないから許したと、恋人のギルバートに手紙で打ち明けている。

マリラもアンも、ことにふれてデイビーやジェラルドたちをしつけたり教育したりしているが、どのくらい効果があるのかは、特に双子の場合は怪しい。いずれにしても彼女たちは体罰は加えておらず、「食事抜きでへやに閉じ込める」のが最大の罰になっているようだ。そしてアンは、デイビーのことは深く愛しているし、双子やその母親も基本的には嫌いにはなっていない。母親もまあ一応のしつけはしようとしているのだろうが、そこのところは描かれていない。

アンは教師としても生徒たちを指導しており、故郷ではアンソニー・パイ、赴任先ではジェン・プリングルという生徒の反抗に手を焼くが、これはどちらも、本人が単純ないたずらっ子というよりは、女性蔑視や町の政治などとのからみもあり、それらが解決した後は、むしろ最高にいい関係を結んでいる。アンソニーにはアンは体罰を行っているが、これはそれが正しいかどうかの結論はなく、むしろ教育やアンの理想について、とてもよくできたエピソードになっている。アンは戦いや暴力をとことん否定し嫌悪し拒否すると同時に、ものすごく戦闘的で暴力的な力もきちんとそなえている人だということは、折に触れて描かれるが、この挿話にも周囲の反応も含めて、それはよく現れている。彼女の体罰に、彼女自身は理想を砕かれて落ち込みまくっているが、マリラは「それはよかった、もっと早くやるべきだった」と言い、友人のジェーンは体罰肯定論者だから、勝ち誇る。恋人のギルバートは温厚な中庸の説を唱えて、両者(ジェーンとアン)から不満を抱かれる。当のアンソニーがこの件以来、アンを認め、うけいれて仲好しになるという皮肉な成り行きも含めて、このエピソードは大きな問題を巧みに処理して成功していると言っていい。

こんなとこかな。

イラストは(私の小説では)時に少女にも中年女にも見えることになっている、タカマガハラの女戦士アメノウズメの人物紹介用のもの。ちょっと美化しすぎかもしれません(笑)。

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カツジ猫