いたずらっ子列伝・7(水の王子覚書32)
「ジャン・ニーノのいたずら日記」がどうしても好きになれなかった理由は前回で少しわかって、八十近くなってから、子どもの頃の自分の心理を理解できた快感に、ちょっとひたっているのだけれど(笑)。人間って、放っておくと、本当に自分のことがいろいろ理解できないまま、死んで行くんだなあ(別にいいけど)と、あらためて思ったりして。
その反対に、これは子どものころから大好きだったオールドリッチの「わんぱく少年」の何が私はそう好きだったのか、あらためてこっちも突き止めてみたい。
実はこの本がもう手元になくて、古本を買おうとネットを漁ってもまったく見つからず、このままだと、ものすごく高価な値がついていても半狂乱で買っちゃうんじゃないかとかなりびびっていた折も折、数日前にふとまた検索してみたら、いきなり十数冊がヒットして、目が回った。思わず二冊も注文してしまったのは、ひょっと「見つかりません」「売り切れました」との返事が来たらと恐かったからだ。で、今、手元に二冊ある。ばかだなあ、つくづく、私も。
ページも色褪せ、判読もやや難しいぐらいの古本を、ペルシャかギリシャの古文書を見つけたように、浮き浮き生き生き読み直している。
で、あらためて思うけど、何がそんなによかったのだろう?
大人というか死にかけの老人になって、新鮮な目で読み直して、あらためて気がつくのは、たとえば、この小説は主人公が大人になってから、過去をふり返るスタイルで書かれている。語り手だか主人公だかは、立派な大人として、読者の子どもである私と向き合っている。彼は自分の過去を語る。子どもに化けてなんかいない。子どもの味方のふりもしない。大人である自分の敵の大人と戦うのに、子どもを利用しようとなんかしていない。そこが何よりも、子どもの私を信頼させたのだと思う。
あらら、途中で公開してしまった(笑)。今夜にでも続きを書いて完成させますので。
イラストは、「渚なら」に登場する「沼の三兄弟」。太鼓をたたいていることになってるのですが、ほとんどロックスターっぽい(笑)。
上から順に、クマノクスビ、アマツヒコネ、イクツヒコネです。