いちごと水仙
いつも行くスーパーに、数日前にいちごのパックが登場していた。もうそんな季節かと思いながらつい買って、ヨーグルトをかけて食べていたら、今朝、玄関脇のいちごの小さい茂みにも、真っ赤ないちごがひとつ熟れていた。虫がもうかじっていたが、大丈夫なところを食べてみたら、なかなかおいしかった。
水仙の花ももういくつか咲き出している。摘むのもかわいそうなので、なるべくそのまま庭で咲かせているのだが、背の高い茂みのは、ときどき倒れてしまうので、そういう花は採って来て飾る。昔ながらのいい香りがする。
白黒猫のマキはやっぱり帰って来ないが、春になって暖かくなるまでは、物置きに入る猫の出入り口は開けておくことにした。陽がさして、ものすごく暖かになる物置きなので、もし帰って来たら、私がいなくて家の中まで入れなくても、しばらくそこで寒さをしのいでいられるだろう。
残された灰色猫のグレイスは淋しそうな風でもなく、むしろ元気そうだが、トイレの片づけやエサやりをした後しばらくは、いっしょにベッドに寝てやって、本を読んで過ごすことにしている。
今は適当に本棚からとった安岡章太郎の「海辺の光景」の文庫本を読んでいる。陰々滅々の暗さに最初引いたが、読んでいると慣れて、普通の家族小説、介護小説に思えて来て、妙な幸福感さえ漂う。なぜかカミュの「異邦人」の冒頭の、母の死の場面を思い出し、あのからっからに乾いた清々しさがなつかしくなる。
それと、狂って死にかけている母親が、元気なときによく歌っていた歌というのが、私の母もよく歌っていた讃美歌だったので、意表をつかれた。「麗しの花を追いて浮世をさまよい うつろう花にあこがるる汝が身のはかなさ 春は軒の雨 秋は庭の露 母は涙絶ゆる間なく祈ると知らずや」というのが一番で、「海辺の光景」が引用しているのは二番の「幼くて罪を知らずゆりかごにいだかれ むずかりて母に揺られし昔忘れしか」だが、少し文句がちがうのは、私か作者かどっちの記憶違いだろうか。
と思って検索したら、私の記憶とは歌詞があっちこっち違っていた。冒頭は正しくは「まぼろしの花」だし、三番(というか最後)の第二節も私の記憶では「帰らぬ悔いとならぬ間に 疾く神に帰れ」だった。これは、でも、母が私に教えたのが、まちがっていたのじゃないかと思う。
それとも母もそのように習ったのかしら。長崎の活水の寮で、これを皆で歌ったら新入生は故郷を思い出して皆泣いていたものだ、と母は語っていたっけが。
「海辺の光景」の主人公は、この歌が母の愛を押しつけているようで嫌いだったと書いている。讃美歌ということには触れていない。私はこの歌を歌っていたという母親が、どこかおしゃれな人のように思えてしまって、ちょっとイメージが狂った。作者はそれを避けようとしたのかもしれない。
それに、母はこの歌の歌詞がいいと言ってお気に入りだったのだが、それは多分「春は軒の雨 秋は庭の露」だと思う。でも(母も英語は堪能だったのだが、確認はしなかったんだろう)今、検索したのに出てくる英語の歌詞を見たら、これは翻訳が創作していて、原文にはそんな表現はないのだ。すごいなあ、これに限らないけど、讃美歌の訳詞のセンスの良さは。
写真は、活水時代の母と友人たち。