いらつくなあ(3)。
ゆきうさぎさんが、せっかく書庫から見つけて送ってくれた「リルケ詩集」だが、私のさがしていた詩が見つからないばかりか、
今家を持たぬ者は、もう家を建てることはないでしょう。
今ひとりでいる者は、長くそのままでいるでしょう。(「秋の日」)
だの、
だれにおまえは嘆こうというのか、心よ。ますますおまえの道は
人に厭われつつ不可解な人々のあいだを進んで行かねばならぬ。
おそらくいよいよそれも空しい努力となるだろう。(「嘆き」)
だのと、おまえは私にけんかを売っとんのかリルケと言いたいような文句ばかり目について、真剣に腹が立ってくる。
まあ、中には、美しい文句もあるんですけどね。
ふとしたものがわたしたちに身をよせあたたまるということ。
おお家よ、おお山の草地よ、おお夕べの光よ、
突然おまえはまじまじと顔を近づけ、
わたしに寄りそって立つ、ひそと抱き、抱かれつつ。
とか(「ほとんどすべてのものが…」)、
すべてはすぎ去るものならば
すぎ去るかりそめの歌を作ろう。
わたしたちの渇きをしずめるものならば
わたしたちの存在のあかしともなろう。
わたしたちから去って行くものを
愛と巧みをこめてうたおう。
すみやかな別れより
わたしたちみずからがすみやかな存在となろう。
とか(「すべてはすぎ去るものならば…」)。
おまけに、こんな時はアガサ・クリスティーのミステリでも読むのが一番気楽だと、「もの言わぬ証人」を読みだしたら(私これ、昔読んだのかもしれないけど、気持ちいいぐらい何にも覚えてない)、最初に(きっと殺されるんだろうな、知らんけど)しっかり者の資産家の老婦人が登場して、家族や親せきが信用ならないことを考えるんだけど、「彼女はヴィクトリア朝の人らしく、不愉快な現実や不安から目をそらすことはせず、事実を直視できる人間だった」とか書いてある。ああそうかい、どーせ私は現実逃避してるよと思ったついでに、原発だって、あらゆる事態を想定して不愉快な予想や可能性を直視しておくべきだったんだよなと、また現実にひきもどされる。
それにしても、原発周辺の住民たちの状況は見ても聞いてもやりきれない。
原子炉の作業をしている方々を筆頭に、今回の災害では献身的な犠牲を払った英雄のような人々が数知れずいたし、今も生まれつつあるのだろうが、原発から20キロ30キロの地域というのは、どこまで絶望的に危険なのか、そこそこ安全なのかがわからないから、何かしてあげようと思うにも、覚悟がものすごく決めにくい。
昔、学生運動しているとき、活動がいそがしくて定期試験が受けられず留年しそうになった時、キャラママたちと冗談で言いあったのが、「革命に命をささげるのは簡単だが、単位をささげるのは難しい」ってことだった。
20キロ30キロ区域にどんどん入ってボランティアその他をするのは、それと似ている。中途半端で地道な献身をし、犠牲を払う、目立たない英雄になるのが、ほんとは一番難しい。でも、救いを求めている人の切実さは同じなのだ。そこにどう手をのばし、光をあてるかを、早く真剣に考えなければ。