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いろいろ予定通りには行かない

年末に故郷の友人が亡くなっって、3日にお葬式に行って来ました。田舎の家にほとんど毎日のように遊びに来て、もうひとりの男子と二階のお座敷でボクシングをして自己採点して勝敗を決めたり、私がノートに書いた小説を読んで、自分も書くと言ってあらすじを話してくれたり、とにかく田舎の家のあちこちに思い出が刻みこまれているような旧友です。

そのボクシングをしていた相手の男子や、その知り合いから年末に電話で連絡をもらっていたのですが、スマホに変えたばっかりで、着信に気がつかず返信もしそこねる始末。とにかく葬儀には行こうと出かけました。

友人は地方の名士で、息子さんは市会議員なので、葬儀はものすごく盛大で、会場から人があふれていたし、弔辞のあいさつもそうそうたる面々でしたけど、一方で親しい友人や地域の人の姿も多く、お孫さんのかわいい弔辞や息子さんの涙で中断する挨拶も、手作りのように心がこもっていて、流れる曲も故人が好きだった「昴」だったり、導師は女性だったり、いろいろと新鮮で自由な感じもあって、これも彼の人徳だなと、何だか嬉しい気もしました。

彼は数年前から入院していて、そんなに唐突という感じではなかったのですが、でも、回復してまた話せるかもしれないと思っていたし、病院に行くのも控えていたので、結局、母がまだ元気な時に見舞いに来てくれて、いっしょに食事をして楽しく過ごしたのが最後になりました。その時も、孫たち皆にいろんなものを同じように買ってやるのが大変だと楽しそうに話していて、そういう話題は昔と変わっても、その様子は中学生のころとまったく同じでした。私が家の維持や生活費のやりくりに苦労していると聞くと、短い時間に親身に的確な助言をしてくれ、私の生活や環境の変化と、それでも変わらない私の本質を、彼もまた自然に受けとめてくれているとわかって、とてもうれしかったです。昔のままで時をとめようとするのではなく、変わってしまった面を見せ合うのでもなく、昔のままで、今の状況を話せることに、大きな喜びを私は感じました。何十年も会っていなかった相手なのに。

私は母にしても叔母にしても、その他の家族や親しい人にしても、亡くなったことに対する喪失感がまったくと言っていいほどありません。彼らの存在をむしろ生きている時以上に感じ、自分の中も外も満たされている気がします。
彼もまた、そのように、いなくなっても、失ったという感じはありません。葬儀に参加してますますそう思いました。参加した人々や、式全体の中に、彼の顔が見え、人生が見え、築き上げたものが見えました。そのことが幸福でした。

私ももう残された時間はあまりなく、片づけていない仕事も多く、急がなくてはならないことから優先順位を明らかにして、今年はやって行きたいと思います。
いろいろ、やりたいことの予定はあったのですが、全部消しました。遊んでいる暇はなさそうです。

昨日、むなかた九条の会がありました。中心メンバーの一人が年末に体調を崩して入院し、回復したようでほっとしましたが、こちらもまた、新しい体制が求められているのを痛感します。

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カツジ猫