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うんざりっすよ

ザパロージェの原子炉への攻撃についての、プーチンだかロシアだかの、あまりにもみえみえ、ぬけぬけの弁明に、しんからうんざりしています。事故が起こってもしかたがない攻撃を加えているのは、ロシアじゃなくってウクライナだと? 何一つ資料がない私でも、あっという間にわかることだけど、自国の中の原発で被害があったら自分たちにとって命取りのウクライナ側がそんなことするわけがなく、さらに最初から、核攻撃をちらつかせて、この問題についての認識と危機感の薄っぺらさ、救いようもない無知ぶりを世界に公開してきたプーチンのことを思えば、幼稚園児でもそんな言い訳信用するかい。本当に世界も人類もなめきった、こんなバカが強大な権力握ってるというのは、まさに何とかに刃物だわ。

遅くなりすぎたけど、9月1日は関東大震災で日本市民がデマを信じて、各地で朝鮮人を虐殺した、おぞましい事件の日だった。身近も身近にこんな記録が各所ではっきり残っているのに、大陸で日本人が残酷なことするわけがないとか、中国人や韓国人が残酷だとか、しれしれと言ったり信じたりできる人がいるのが、これまた信じられないんよね。目の前の事実に片目をつぶって、頭の中の論理をあちこち消して、何かを判断できるってのが、どうしたらそんな曲芸ができるのか、実にもう不思議でならない。こんな人たちと同じ国民とか人種とかでひとくくりにされるぐらいなら、中国人や韓国人はおろか、セミやゴキブリとひとくくりにされる方がまだ気分がいい。

ところで私は、この朝鮮人虐殺について、むろん学校では習わなかったし、外国の児童文学しか読んでなかったから、知るよしも本当はなかったのだが、小さいときからなぜか知っていた。今でも覚えているのだが、それはわが家が購読していた「文藝春秋」に載っていた小説だった。連載だったか単発だったか、そもそも全体の筋なんかもまったく覚えてない。というか、知らない。ただ、自分でもわかるところを、ちょこちょこ読んでいたら、どこかの庭で朝鮮人たちが集められて殺される場面が出て来た。朝鮮人には難しい発音のことばを言わせてチェックするとか、最後はひとまとめに惨殺するとか。多分、共産党の人も犠牲者の中にいたのか、「皆、インターを歌え!」と言って最後に「インターナショナル」を歌ったりしていた。

私はいくつぐらいだったのだろう? まさか小学生にはなっていたと思うが、わからない。家に届いていた雑誌の中には「リーダーズ・ダイジェスト」とかもあって、どれもこれもけっこう熱心に読み飛ばしていた。そのころ私が読んだ、同種の残酷な場面としては子どもの本の「黒いチューリップ」での、民衆の政治家へのリンチとか、多分「週刊朝日」の記事の中にあった、中国か朝鮮での日本軍の村人惨殺の証言だった。当時はまだ中国大陸での日本軍の虐殺は、ほとんど記事にならなかった(最初に、しっかり報道したのは本多勝一「中国の旅」だったから、何十年もあとになる)から、珍しい記事だったかもしれない。

幼い子どもの私にとって、それらは直接に体験したのと同じぐらいに鮮烈な記憶としてとどまった。「文藝春秋」の場合、話の途中で色刷りの広告のページがあって、中断されたことまで、目にやきついて覚えている。それが関東大震災の朝鮮人虐殺の話だったと思いあたったのも、ずっと後になってのことだ。何かで読んで知ったとき、「ああ、あれはそうだったのか」と、現実の古い記憶のように、その小説の場面がよみがえった。

私の近代史の知識は、特に日本については、実にお粗末だ。それでも、そういう知識の多くに、そういうリアルな場面の描写がからんでいる。まるで自分が体験したことのように。この「文藝春秋」の話だって、結局これまで一度も誰にも話したことはない。人に話すほど、まとめきれなかったからだが、それでも一度も記憶から消えたことはなかった。

それにしても何の小説だったのだろう。田舎の家の書庫に残っている当時の「文藝春秋」の山をひっくりかえしたら、ひょっとして見つかるだろうか。そんなことができたら、何の役にも立たないけど、ものすごいぜいたくだろうなって気もするが。

これもだいぶ前に朝のラジオで聞いたが、岸田首相があんなにとっとと国葬を決めたのは、外国の要人を招いて外交に利するという目的があったのではということだ。コロナだか統一協会だかで、要人はほとんど来ないみたいだし、国内世論は、今日ちょっと見た普通のワイドショーまで皆が平気で批判に傾いてたし、ご愁傷様としか言いようがないけど、それにしても、そのとっさに決めたときに、国民の生活や現状はまったく脳裏の片隅にもなかったことが、ありありとわかるから、やっぱり自業自得としか言いようがない。

「使ったあとで報告します」と、どこの町内会でもPTAでも通用しないことを言って、100億超えるかもしれない予算で強行しようとしている国葬に政府が没頭してる間に、物価はうなぎのぼりだ。先日スーパーでトマトを買おうとしたら、三個で498円だった。ものすごくためらって、結局買ったが、何かもう、許せない。

それでも今日は隣町のスーパーに足をのばして、そこの特設コーナーで新米のミルキーウェイとやらいう、おいしそうな銘柄のを、小さい1キロの一袋を買ったりした私は、まだまだ余裕があるし、ぜいたくなのかもしれない。だけど私が常日頃言ってることだが、本当にどん底で苦しくてせっぱつまってる人たちは、声を上げる余裕さえないんだよ。私だってきっと、そうなる。

だから「私はまだいい」「余裕がある」と思ってる人たちこそが、その分、声を上げなくちゃいけないんだよ。それは権利じゃなくて、義務だと思う。

今日は、というか昨日は、一日雨で、だらだら過ごした。どーでもいいことだが、先日のちっちゃい桃は、いっちょまえに、少し傷みはじめたみたいなので、皮をはいで食ってしまった。ちゃんと桃の味がして、おいしかったから立派なものだ。まだ一個、木についているのだが、落ちるまで待った方がいいのかな。台風の前にちぎっちゃおうかな。

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カツジ猫