うーん、どうしてくれようか。
◇明日は、ものすごく寒いらしい。最高気温が5度だって。
上の家を一気に片づける予定だったのだが、寒いとどうもなあ。
下の家で居心地よく、ノート作りでもした方がいいのかもしれない。
それともいっそ、街に出かけて、あたたかいお店か映画館で時間をつぶすか。猫たちがかわいそうだが。
まあ何となく、出たとこ勝負だなあ。
昨日は何だかばてて、一日寝ていた。カツジ猫は喜んで私にべったりくっついていた。
食欲もなかったので、ほとんど何も食べずにいたら、今日ジムに行ったら、みごとに1キロ減っていた。まあこれはそうそうにリバウンドするだろうが。
◇今日は九条の会の代表として、共産党の「春を呼ぶつどい」というのに行って来た。幅広い層からの参加で、市長からもメッセージが届いていたのに驚いた。歌や踊りもあってにぎやかで、会費は払ったが久しぶりにちゃんとした食事を食べた。
その帰り、せっかく帰り道だったので、宗像大社と鎮国寺に初詣し、こちらの小さな墓地にもお参りしてきた。個人墓で、私の名前と動物たちの名が刻んである。モモとしまおの名を入れなくてはならないのだが、どこに刻もうかと少し迷ってる。もうこれ以上増えることはないはずなのだが、どうなのだろう。まあ、その内に考えよう。
とにかく、これでまた一つ、新年の行事が片づいて一安心。あとは実家の近くの神社に行くだけだが、これもまあ2月中でいいだろう。
鎮国寺ではもう梅が、ピンクの雲のように咲いていた。そのそばの店で、去年と同じ甘酒を飲んだ。暖かくておいしかった。何しろものすごく寒い日で、コートを着ていても風がしみいるようだった。
◇昔、友人と映画を見ると、その後、出ていた俳優たちの出演作を皆見ていく、たこ足追っかけみたいなのをよくやっていた。ついそのクセがでて、「ウェスタン」のカルディナーレと「ウェストサイド」のチャキリスが出ている「ブーベの恋人」のDVDを見た。
私はこの映画、予告編を見た記憶があって、その時も本編でも、二人のデートの時に、カルディナーレのマーラが、菓子パンの入ったガラスのケースを開けられなくて押していたら、チャキリスのブーベがひょいと反対側に押してすうっと開けてやる場面しか覚えてないのだから笑える。あと、週刊朝日の荻昌弘さんの批評がこの映画をほめていて、骨太でしっかりした妥協のない名作とか言った後、「それに比べて字幕の翻訳は、明らかに『共産党』と訳すところを、(おそらくゴールドウォーター氏の許可は得ないで)『共和党』と訳していたのが情けない」と書いていたのも印象に残っている。ゴールドウォーターは当時のアメリカの急進的な右翼の共和党議員だった。
もうね、そういうことしか覚えてないのよ。
あらためて見たら、本当にひきしまったいい映画だなあ。ダンスシーンがちょこちょこあるのにチャキリスに踊らせたりなんかまったくしないし、彼もよくやってるが、カルディナーレがまあもう、かわいいこと。そして彼女が一時浮気してつきあう好青年が、まあブーベと対照的に、いいやつなんだけど軽くて薄くてどうでもよくて、よくもこんな影の薄い男の演技ができるなあと俳優にひたすら感心していたら、ネットで感想読んでたら「ブーベよりこの人の方がずっと魅力的だしお似合いなのに」と言ってる人もいて、そうかなるほど人の好みはさまざまだと妙にこれまた感心したり。
◇さらに「大脱走」のビッグXのアッテンボローとトンネルキングのウィリーのジョン・レイトンが出てる「バタシの鬼軍曹」、こんなの見られるときが来るとは思わなかったが、意外にDVDが安かったので買ってみた。これがもうまた、アッテンボローのうまいこと、一瞬たりともビッグXには見えない。そしてジョン・レイトンも「大脱走」の時には相当重要なもうけ役をもらっているが、歌手の分際であのそうそうたるメンバーの中での演技はかなり大変だったんじゃないかと、こっちは勝手にときどき心配していたのだが(女性がまったく登場しない映画の中で、マッカラムのアシュレイ・ピットとともに、女の子役っぽい存在で起用されたんだろうなとも思ってたし)、これまた普通にたよりない兵士を好演していた。まあ、「硫黄島からの手紙」で嵐の二宮君がちゃんと演じていることもあるし、歌手やタレントの演技力をバカにしてはいけないのかもしれない。それとも、兵士の役と言うのは誰がやっても何とか行けるのかも。
◇でもねー、つくづく思ったのは「ブーベ」にしても「バタシ」にしても、戦争の節目というか混乱期って、ほんとに滑稽なぐらい価値観も常識も入り乱れて、人は翻弄されるよね。「ブーベ」の場合はよりリアルなのでそうでもないけど、「バタシ」は凝縮した舞台劇風なので、その、歴史の変わり目の悲喜劇というのがものすごい。
そしてまた、昔のローマ帝国や大英帝国の植民地での、こういう局面は山ほどあって、それをこういう大帝国は徐々に自分の領土を縮小しつつ、退却し、耐えていった先に現代があるのだよね。
私は名もないような名作で、いくつもこういう状況の英国や欧州の歴史の変わり目の映画を見たような気がするし小説も読んだ気がする。「時間と分」とか。
日本もそういう状況がいくつもあったはずだよね。それを描いた文学って、まだあまり私は知らないなあ。「バタシ」のような、細かい乾いた皮肉な描き方までに煮詰めてしまった作品とかを、特に。