お菓子と花と三浦洸一
昨日お花を買いに行ったお店で、死んだ母の誕生日のお祝いだと話して「バカよねえ」と嘆くと、「いや、自分も母の命日よりは誕生日に何かしたくなります」とオーナーのお言葉。そうよねえ、命日に比べると、やって来た回数がちがうもんねえ、習慣になっちゃってなかなか忘れられないと言い合って笑いました。
私は普通の健全な市民になりたいとか、さらっさらもかけらも思わない人間ですけど、まあそういう会話をすると自分がそう特別でもないかもしれないと自信がついて、上の家の仏壇から母の位牌を下ろして来て、下の家の置床に置き、バースデーカードや、この前カードといっしょに街で買って来たちっちゃい上等のチョコレートのお菓子(小さすぎて写真じゃ見えない)や、どっさりの花を飾って、何よりも母が好きだった三浦洸一のCDをラジカセで朝からがんがんかけています。今日は一日、これをかけっぱなしで家で仕事をするんだい。バースデーカードにはいいかげんなこと書いてるけど、母は生きてたら104歳ですね。
CDはたくさんあるし、収録曲も多いので、ゆっくり楽しめそうです。
そうこうしている間に、もう夕方になりました。今日もけっこう暑いので、ベッドでライトノベルを読み飛ばしながら三浦洸一に聞きびたるというぜいたくを満喫しています。
今の音楽番組では当時の歌手としてフランク永井がよくとりあげられます。彼も人気はあったし、いい歌手でしたが、その直前の三浦洸一の人気はもっと高かった。そのころは同じヒットソングが今よりずっと長く流行りつづけ歌い続けられていました。まだ母がそんなに彼のファンでもないころ、NHKののど自慢で彼の「落葉しぐれ」を歌う人はどれだけ多かったかしれません。そのころは司会者ものんきなもので、毎回、その歌の歌詞を引用して「望みも夢もはかなく消えて、鐘ひとつでございました」とくりかえしていました。聞くともなしにラジオを聞いていた幼い私がそのせりふを、すっかり覚えてしまったほどでした。
当時私の村では大きな建設会社の一家が町長以下村の政治を独占していて、村医者だった祖父をはじめ、それに対する反対勢力が選挙のたびに対立し戦っていました。まあものすごく陰湿とかいう感じの対決とかではなく、日常のつきあいは普通にしていたのですが。
当時は平家一門のような権力者たちだった、その建設会社一族の主な一人が、三浦洸一の「男なら」の歌を愛唱していて、宴会のときなどには、いつもそれを歌うのだ、ということを、母はどこかから聞いてきて話していました。だからどうということも言ってはいなかったけど。その人は母よりずっと前から、その歌のファンだったことになります。
何にでも中途半端でなく熱中する母は、ファンクラブに入り、彼のご家族とも手紙をやりとりし、ラジオのリクエスト番組にはペンネームでハガキを出しまくっていました。レコードは全部買って持っていました。全部の歌を三番まで歌えたし、私もつられて覚えていました。
それらの有名無名さまざまな、なつかしい歌を今シャワーのように全身に浴びていると、当時がよみがえるとかいうより、もうそのままの世界の中に今の自分も生活も融合し、一体化して行きます。彼の歌についてだけでも母とかわした会話の数々は限りなく今も思い出します。そのころは、歌詞もほとんどはラジオで耳で聞いて覚えるしかありませんでした。「ふるさとの岬」という歌で「はまなすのとげのき」という歌詞の意味がわからずに二人で頭をひねったり、「大阪の人」の歌詞で「つらかろと泣かない大阪の人」という部分を私が、前にヒットした「東京の人」の「恋に泣く東京の人」というのと対照させたんだねというと母が「ああ、そうやねえ!」とやたら感心したりとか、もういくらでも思い浮かびます。
私たちには「舟歌」と言えば、三浦洸一のこの歌で、その後に出た別の歌手の同名の歌ではありませんでした。「踊子」などの有名な歌はもちろん、「白い野ばらの花のよに、月の光が降っていた」という歌詞の美しさに母が酔っていた「街灯」とか「郵便船が来たとよ」とか「桜の園」もなつかしいし、私自身は「ああダムの町」とか「落城の歌」とか「権さの馬車っこ」とかも好きでした。
今これらの歌の多くがネットで聞けて、ここで紹介できるのにも、とても感謝しています。
母の供養と思って、よろしければ皆さんも歌ってやって下さいませ(笑)。
そう言えば母が三浦さんにもらった、立派なだるまのお盆もあったっけ。今から探して飾らなきゃ。→ありましたありました。
まだまだ書きたいこともあるけど、今日はどうやらこの話題だけでいっぱいですね。余裕があったらまた深夜にでも来ます(笑)。