かあ?
昼から雨だって言うから朝の内に、買ってきたパンジーを植えてしまいたいのだけど、時間あるかなあ。そもそも、どこにどんな風に植えて行くのか、どうもまだイメージがつかめない。
先日ぶちきれた天気予報の女性アナのことだけど、今朝は横綱とかだけじゃなく、ボクシングの例もまぜて話していた(笑)。
何で私がこういうしゃべりにイラッとするのか考えてみたら、まだ認知症にはほど遠かったけど、やはり年なりにボケていた母と暮らしていた時の記憶がしみついているんだと思う。
そういう高齢者って今も多いと思うんだけど、こういう女子アナの利いた風なおしゃれなつもりの言い回しって、とっさに理解できない人って多いのだ。寒さと相撲とどういう関係があるのか、ボクシングの試合が来週あるのかとか、聞いててわけがわからなくなるのですよ。そして介護者や同居人に「来週、横綱が来るんだって?」とか「ボクシングの人と試合するらしいよ?」とか変な確認を必ずしてくる。
そこで「ふーん」と受け流すか、「なーに言ってんの、おばあちゃん」とか笑い飛ばせるならいいのだけど、私は母が死ぬが死ぬまで、そういう対応はしなかった。「ねえ、私のことわかる?」と幼稚園児に出すクイズのような質問も一度もしなかった。まちがっていたら「ちがうよー、あの人もう死んだよ」とか、「それは例えで言ってるんだよ」とか、笑いながら冷静に、だけどきちんと説明して、普通に相手をしていた。そういう扱いをすることで母は不幸にならずにすむと感じていた。
実際母は、「今朝はどうしてた?」と聞くと「あら、忘れちゃった」とか平気で答えて笑っていて、自分の状態を受け入れて、あせっても恥じてもいなかった。それは私がガキ扱いしないで、ちゃんと尊厳を持った人間として対応していたからだと思っている。私自身がそう扱ってほしいと思っていたからでもある。
祖母はそういう弱みを絶対他人に見せなかった。何をどこまでわかっていたのか、どこまでボケていたのか、九十二歳で亡くなるまで、周囲も私も全然わからないままだった。祖母は用心深く、自分がわからないことを信じられない他人には見せないようにしていたのだと思う。私のような存在がいない私は、母のようにはなれまいから、祖母の戦法で心を閉ざして生きるしかない。
とは言え、それはわかっていても、母の見当違いな疑問や質問が度重なると、それはさすがにこっちも疲れる。
今のあの天気予報みたく、気の利いたつもりの言い回しを聞くと、反射的に「あっ、母がまた混乱するな。どういうことか聞いてくるな」と思ってしまう。死んでもう何年もたつのに。
いったいぜんたい、あの女子アナにそういう体験はないのかね。漫才やコメディーのおふざけや言い回しがもうよくわからなくなった年寄りは、天気予報を聞かなくてもいいと思っているのかね。一人暮らしのぼけかけた年寄りが、どういうことかと首をかしげながらラジオを聞いて途方に暮れてる様子とか想像して、胸が傷んだりしないのかしら。そういう老人はとっとと集団自決して、冗談のわかる頭の回転の早い人だけが、自分の高級ギャグのまじった天気予報を聞いてくれればいいと思っているのかね。
前に民放ラジオをよく聞いていたころも、たとえば女子アナが歌手のモノマネをしてふざけるのが私は大嫌いだった。それも、母なんかは絶対これがモノマネとわからないで、私とピント外れの会話をして、下手すりゃけんかになりかねないと予測して、聞くたびびくっとしてしまうからだった。そういう身内ネタの甘えもいやだが、特に天気予報なんて、わかりやすく、簡単なほどいいに決まっている。視聴者の弱者の理解度にも思い及ばない分際で、変にタレントきどりになんか、なってほしくない。
それに比べりゃまだましかもしれないが、だいたいがNHKの女子アナはカン違いな自己表現が耳についてしょうがない。男性アナにはあまり感じないから、結局女子アナは定型やモデルがまだ決まってなくて、それぞれ苦労し模索してるんだろうとも思うけど。
朝の番組によく出る女子アナの、専門家に何か聞くときのカマトトぶりも気持ちが悪い。まあ定番の表現でもあるんだけど、いちいち、「はあー」「ええー」とミエミエの驚き方をして見せる。もうこれは私の趣味にすぎないけど、「そうなんです、かあ?」「どうしてです、かあ?」と、すっとぼけて語尾をのばして尋ねるのが一番きらいだ。
完璧に言いがかりだけど、私こういう「えー、私なんにもわからなーい」ポーズをとる人って、絶対、自分のことをバカとは思ってないと思うのよね。自分はほんとは全部わかってるのだけど、バカのふりしてるんですう、って、満々たる自信が実はあるんだと思う。口調からも声からも、それがにじみ出てるのよ。だから鼻持ちならんっつうの。
いやだもう、朝からすみません。そろそろ仕事に戻ります。あ、その前に買い物に行こう。リンゴとお米を買わなくっちゃ。